真の父母様の本体論

キリストによる三大王権を中心として展開する天一国の真理真相解説

「王家のシステム」から見えてくる原理講論・統一思想・原理本体論のレベル!

先回記事後半


なぜ主体には愛そうとする衝動が湧き上がり、対象には愛されようとする衝動が湧き上がるのでしょうか。


それは主体と対象が、どちらともに宇宙という環境を通して、神様の真の愛に包み込まれているからです。人間は誕生した時から、真の愛に対する感性を備えていますが、それを育むかどうかは、人間自身の責任分担です。主体の前に対象が与えられるのも、神様の創造した被造世界に組み込まれた愛のシステムによるものです。ですから、対象の存在自体が愛そのものなのです。


人類始祖アダムとエバも、そして私たち人間の全て一人一人が、宇宙という環境を通して、360度から神様の愛に包み込まれて誕生するのです。360度・・・、天宙と考えれば無限次元において真の愛に包容されて、その真っ芯で生を受けるのです。一人一人が、真の愛の真っ芯にあるのです。


何故かと言えば、神様が愛によって生まれたという体験から、その神様と同じ体験が出来るように人間を創造したからです。


真の愛の真っ芯で生まれ、真っ芯で成長するので、統一思想での「主体と対象の愛の関係性」とは愛の次元を異にするようになるのです。主体の前に対象が現れた時点で、対象が意識せずとも、対象の存在自体が愛となって主体を刺激するのです。


その愛のシステムこそ、神様が天宙に仕組んだ霊的構造なのです。神様を包み込んだ真の愛により、神様の無意識世界が心情世界となったと解釈すると、この天宙に仕組まれた愛のシステムの様相が理解できるようになるのです。


この事を、原理講論の「愛と美」の関係性から解説すると、私たちがこれから住むようになる天一国の真の愛の様相が、はっきりと現れるようになるのです。


  *****


統一思想での「主体と対象の愛の関係性」について、原理講論の「愛と美」の関係性から解説する前に、「統一思想」「原理講論」に解説されている内容が、どのレベルなのかについて書いておきたいと思います。


今回の記事は長く深く、集中しないと読み取れないと思います。しかし、この内容を地上に明らかにしなければ、次の次元に踏み入ることが出来ないのです。理解できる方に理解していただければ、先に進むことが出来るでしょう。


統一思想要網においての、主体と対象の愛についての解説を、先々回も先回も引用しました。今回の記事でも、その部分の引用から書き始めます。


統一思想要網 第一章 原相論 二、神性 (一)心情」より
「愛は主体が対象に与える情的な力である。したがって主体においては愛そうとする衝動であり、対象においては愛されようとする衝動である。幼児が父母から愛されようとする衝動は抑えがたい。その衝動がかなえられないときは、反抗的になったり病気になったりするほどである。また親が子を愛する衝動も抑えがたい。子供が危機に直面したとき、我が身を顧みず子供を助けようとする親の例はいくらでも見られる。愛を通じてのみ真の喜びが得られるからである。」


主体は愛そうとする衝動であり、対象は愛されようとする衝動だと説明し、その例として、親と子の愛の関係を上げています。神様と人間の関係も親と子ですから、親子の愛の関係性を例として挙げたのでしょうか。


しかし、この主体は愛そうとする衝動であり、対象は愛されようとする衝動だとする関係は、主体と対象という関係性に限れば成り立つと言えるものではないでしょうか。人間の成長における関係性を考えると、兄弟姉妹の愛、男女の愛、夫婦の愛と成長し、愛の質が昇華していくのですから、単純な解説で成立するのかという疑問が浮かんできます。


最終的に父母の愛となり、「為に生きる」関係性になった段階では、単純に言い切れるものではないということです。対象も愛されるよりも愛することが喜びとなり、主体においてさえ愛される喜びを知らなければ、愛することは出来ないという事になるわけです。


それでは、統一思想では人間の心情の成長について、どのように解説しているのでしょうか。その事については、「統一思想要網」の223ページから「二、教育の三形態(1)心情教育」という項目で解説されています。すべて引用するわけにもいかないので、項目だけを上げてみます。


(一) 心情教育
(1)個性完成のための教育(2)神の心情の表現形態
(①希望の心情②悲しみの心情③苦痛の心情)(3)神の心情の理解(①アダムの家庭における神の心情②ノア家庭における神の心情③アブラハム家庭における神の心情④モーセの路程における神の心情⑤イエスの路程における神の心情)(4)神の心情の紹介(5)実践を通じた心情教育


統一思想の「心情教育」に解説されているのは、あくまでも「み言、原理、教材」による学習としての教育です。


この学習による教育とは次元を異にする、神様自身による教育を、真のお父様は統一思想要網の発刊と同時期に語られ始めたのです。


「統一思想」は真のお父様のみ言と統一原理を基に、李相憲氏によって1988年8月に「統一思想概要」として発刊されました。さらに、1993年11月に「統一思想要網」として、頭翼思想という副題が付けられ発刊されました。


同時期となる1993年10月6日から、真のお父様が直接にみ言を語られる「16万人日本女性修練会」が始まりました。そこで、歴史上初めて「四大心情圏三大王権」のみ言が語られました。


ですから、「統一思想」には「四大心情圏」に匹敵するような解説は為されていません。


「16万人日本女性修練会」において、真のお父様が「四大心情圏三大王権」について語られる前に、周藤先生に四大心情圏の骨子を語らせています。


「周藤君。(はい)。四大心情圏について、ちょっと話してください。公式的な、骨子だけです。(はい)。よく聞きなさいよ。」


  **引用開始**


 それでは、「四大心情圏」について、簡単に骨子だけをお話し申しあげます。四大心情圏は、元々神様が創造の理想として持たれた構想理想をいかにして実体化するかという、その基本的な神様の計画であります。そして神様ご自身も、自分の中にいかなるものを持っていらっしゃったとしても、環境という相対圏を持って、その授受作用によらなければ喜びがありません。だから、その爆発的な喜びを経験するためには、どうしても、神様ご自身の性相と形状を実体化しなければならないという基本的な原理があるのです。


 したがって神様は、その中心として人間を創造されました。そして、神様の元々の構想理想では、アダムとエバを、神様の中において双子の兄さんと妹として構想され、それが具体的に誕生して、アダムとエバがこの地上に実体の、子女として展開しました。そして、それがさらに、環境と授受作用して成長して、アダムとエバそれぞれに、基本的に四つの愛、すなわち第一心情としての子女の愛、第二心情としての兄弟姉妹の愛、第三心情としての夫婦の愛、第四心情としての父母の愛という、この四つの心情を完成することを通じまして、それを一点において一挙に完成させて、神様もそこに同時に参加して、爆発的な喜びを体恤するという構想理想を神様は持たれました。


 そしてそのために、まず子女の愛が成長し、そして兄弟姉妹の愛、さらに夫婦の愛となってきますが、その子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛は離れたものではなく、それぞれ一直線上に連続的に存在するものであります。そして子女の愛の基盤の上に、兄弟姉妹の愛が成長し、兄弟姉妹の愛の基盤の上に夫婦の愛、最後に父母の愛という四つの心情圏が、アダムとエバが初めて夫として妻として一体化する初愛の瞬間に、一挙に完成するようになっていたのです。そのようなアダムとエバの結婚によって、子女の愛が完成し、兄弟姉妹の愛が完成し、夫婦の愛が完成して、さらに父母の愛が出発できる条件が成立するのです。その一点にまた、同時に神様ご自身も降りてこられて、神様も共に同じ経験をするというのです。


 そして、このアダムとエバの結婚の時には、実に全世界のプラス・マイナス、陽性実体・陰性実体が一体となるその瞬間であり、天使界も共に賛美する瞬間であり、そしてさらに、神様ご自身もそれに参加するのです。そのような意味において、神様の性相と形状がその時、同時に一つになるのです。


 しかし、神様の性相と形状が一つになることが内的に優先し、それが原因であり、その結果として、人間のアダムとエバが一体化するというのです。そういう意味において、神様がいつも優先し、先行しますけれども結局、アダムとエバの結婚のその時は、実に神様ご自身の結婚式でもあるのです。そして、その結婚によって、アダムとエバ両者は相互完成して、神様の愛を占領し、同時に神様もそこで完成するという素晴らしい理想なのです。その中心点がすなわち、四大心情の定着点であり、その一点が正に神様の住みたもう場所であり、それが至聖所であり、また同時に三宮すなわち、真の愛の本宮であり、真の生命の本宮であり、真の血統の本宮であるというのです。そこに永遠なる愛というものがあり、神様と人間が縦的横的な愛において完全に一体化して、永遠の基準となり、そこから具体的に神の永遠なる家庭、永遠なる氏族、民族、国家、世界、天宙、地上天国、天上天国が出発するという理想の一点となるのです。


 ですから、その愛の一点こそが重要なのです。しかし、堕落によって、そこにサタンが侵入したというのです。ですから、その至聖所を本当に守らなければならないのが私たちの立場であります。そしてそこから生まれる新しい生命は、神様がアダムとエバを創造した時に投入した基準を経験し、さらにまた神様が人間を愛する愛の基準を、自分の子供たちをすべて無私の愛で愛することによって体恤して、神様と同等の実体となっていくのです。そのようにして結局、人間は見えない神の実体として、第二の神として、第二の創造主としての立場に立つことができるのです。


 こうして神の構想理想が四大心情の定着点において完成するというのです。正にこれは天地創造の秘密であり、そして最高の中心点がその一点であり、それによってこの四つの心情圏が完成するのです。しかし堕落によって、それを失ってしまったのです。ですから、それは真のアダムによらずしてはできず、特に女性は真のアダムを通じて今、初めてそれを復帰できるのです。すなわち、お父様によらなければ、この四大心情の復帰の道がないということです。その素晴らしい恵みを私たちは今、この場所でもって受けているのです。どうも、ありがとうございました。


  **引用終了**


堕落前のアダムとエバにおいては天使の協助のもとにはありますが、何よりも四大心情圏の成長の為の基本となるのは環境との授受作用です。自然環境との授受作用であり、人間との出会いの環境との授受作用です。


最終的に四大心情圏の完成は、「絶対性」によってアダムとエバが結ばれることによって成就されるのです。


本来ならば、四大心情圏三大王権については、100%神様100%人間のアダムの様相が明らかにならなければ、本当の本然世界の意味や意義を解説できません。しかし、アベルカイン一体の「メシヤの為の基台」が立たず、キリストを証し出来ない中で「成約時代」を迎え、「四大心情圏三大王権」を地上界に提示しなければならなかったのです。


ですから、「四大心情圏の骨子」を真のお父様自らは語らず、祝福家庭を代表させて周藤氏に語らせたのです。


この「四大心情圏の骨子」において分かることは、神様が創造した自然環境の中で、家庭を形成していく過程で、戒めさえ守っていれば、自然な生活の営みにおいて心情は形成され、完成の域に達するように造られていたということです。


つまり、人間を包み込む天宙・宇宙・地球という環境そのものが、心情を成長させる「心情形成のシステム」として創造されていたのです。それこそが「愛のシステム」であり、四大心情圏三大王権が成就した暁に、「王家のシステム」となるものなのです。



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実は主体の前に立った対象そのものが愛の顕現であり真の愛の触発体なのです!

先回記事末部より


統一思想による心情の定義は、次のように記述されています。


「神の属性の中で一番の核心になっているのが心情である。心情は喜びを得ようとする情的な衝動であるが、真の喜びは愛することによって得られる。ゆえに喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動と一体となっている。したがって心情とは、『愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動』である。」


喜ぼうとする情的な衝動が、愛そうとする情的な衝動と一体となっているとあります。そのうえで、「ここでいう愛とは、世俗的な愛、自己中心的な愛ではない。」と断定されていますから、この解説に従えば、自己中心的であった神様の無意識世界は、心情世界とは言えないという事になります。


しかし、「見えない神様の教本」である夜の神様についての解説は、まだまだこれから深められ詳細になっていくでしょう。やがて、三代王様が解説する時こそ、真の解説として様々な用語が現れ、定義が決まっていくかもしれません。どんな定義になろうとも、本質を理解していれば問題ないのです。


さて、たった一人で存在していた自己中心的な神様が、本形状の前段階エネルギーの「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」によって、本性相の知情意が刺激され、包み込まれた感覚を実体験しました。その体験からくる実感を真の愛と定め、愛によって生まれたと覚醒したことを理解すると、真の愛の本質が見えてくるのです。何ゆえに、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の夜の神様と真のお父様の様相となったのかが、心から腑に落ちるのです。


  *****


たった一人で存在し、他の何ものをも意識することのなかった自己中心的な神様は、本性相の知情意による存在の喜びを追求し、全知全能であるがゆえにすべての願望を成就していました


本性相の内的形状である原理原則・法則性・数理性に則り、内的性相の知情意による願望は、神様自身の意識世界に無限環境圏を拡げ、無限次元の存在の喜びを実感し続けていたのです。


ですからそのままでは、他の何ものをも意識する必要もありませんから、自らの対象となるものを必要としていなかったのです。その事については、「統一思想要網」にも書かれていますし、二代王様も語られています。どちらも、「キリスト教神学では」と但し書きがありますが、真のお父様が自己中心的な神様について語っていますから、真実真理として間違いないでしょう。


統一思想要網 第一章 原相論 二、神性 (一)心情
「キリスト教神学では神を全知全能であるとしている。しかし神が全知全能であるとしても、全知なるまま、全能なるままで、自己満足して、何もしないで黙っていてもよかったはずである。」


二代王様のみ言 2021年3月23日キングスリポート
「しかし、キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。」
「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
それがキリスト教で扱われている『神は愛である』という内容です。三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答(reciprocate)しているわけです。それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。」

(創造以前の三位一体における神とは本性相、父とは本形状の比喩)


真のお父様のみ言「御旨と世界」 人間に対する神の希望より
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。」


たった一人の存在で他の何ものをも意識していなかった神様にとって、本形状の前段階エネルギーは、本性相の願望をそのごとく意識世界に実現させてくれていました。しかし、本形状自体の形状は完全な無であり、絶対的に無であってこそ神様の存在の喜びを違和感なく実現するものとなっていました。


その神様が対象の存在を意識し、本形状に独自の形状を与えようと発想する切っ掛けとなった、神様の体験があったのです。


神様の自体内の働きは、主体である本性相の「授ける」及び「働きかける」心から始まり、対象の本形状が主体の働きに答えて「受けて実らせる作用」となって現象化するからです。神様には、その前の喜びを成就してくれた前段階エネルギーによって得た感動の大きさが残っていますから、さらに大きな喜びを求めて実現した感動がさらに優っていきます。すると、より大きな喜びを求める心情は、前の段階での「記憶の残存痕跡の作用」から、前段階エネルギーに包容される感覚を実感するのです。前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を「内的愛」だと自覚するのです。


自己中心的な神様は、それまで存在を無にしていた対象である本形状の前段階エネルギーに、包み込まれる感覚を得たことによって、はじめて対象を意識したのです。そして、包み込まれる喜びの湧き上がってくる根本の性質に覚醒したのです。


その性質こそ、無であった本形状の「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」なのです。その性質が自己中心的な神様の喜びを求める情的衝動を刺激し、主体と対象の関係性において、無限の存在さえも超えて包み込んでくる喜びの境地を、知情意の思考によって「真の愛」として感じ取ったのです。


そこで神様は、「愛によって生まれた。」と実感し、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」によって「真の愛」を探し出そうとし始めるのです。


他の何ものをも意識していなかった神様から、対象を愛したくて矢も盾もたまらない心情世界を持つ神様に生まれ変わった体験が、ここにあるのです。その神様は、この体験により生まれ変わったと結論付けたのではなく、「愛によって生まれた」と表現したのです。


これが宇宙の根本であり、真の愛の起源なのです。このことが理解できると、私たちは真の愛の世界において、新しい天一国次元の真の愛の世界に入るのです。


統一思想要網では、主体と対象の愛について、すでに先回の記事で引用していますが、次のように解説しています。


統一思想要網 第一章 原相論 二、神性 (一)心情」より
「愛は主体が対象に与える情的な力である。したがって主体においては愛そうとする衝動であり、対象においては愛されようとする衝動である。幼児が父母から愛されようとする衝動は抑えがたい。その衝動がかなえられないときは、反抗的になったり病気になったりするほどである。また親が子を愛する衝動も抑えがたい。子供が危機に直面したとき、我が身を顧みず子供を助けようとする親の例はいくらでも見られる。愛を通じてのみ真の喜びが得られるからである。」


なぜ主体には愛そうとする衝動が湧き上がり、対象には愛されようとする衝動が湧き上がるのでしょうか。


それは主体と対象が、どちらともに宇宙という環境を通して、神様の真の愛に包み込まれているからです。人間は誕生した時から、真の愛に対する感性を備えていますが、それを育むかどうかは、人間自身の責任分担です。主体の前に対象が与えられるのも、神様の創造した被造世界に組み込まれた愛のシステムによるものです。ですから、対象の存在自体が愛そのものなのです。


人類始祖アダムとエバも、そして私たち人間の全て一人一人が、宇宙という環境を通して、360度から神様の愛に包み込まれて誕生するのです。360度・・・、天宙と考えれば無限次元において真の愛に包容されて、その真っ芯で生を受けるのです。一人一人が、真の愛の真っ芯にあるのです。


何故かと言えば、神様が愛によって生まれたという体験から、その神様と同じ体験が出来るように人間を創造したからです。


真の愛の真っ芯で生まれ、真っ芯で成長するので、統一思想での「主体と対象の愛の関係性」とは愛の次元を異にするようになるのです。主体の前に対象が現れた時点で、対象が意識せずとも、対象の存在自体が愛となって主体を刺激するのです。


その愛のシステムこそ、神様が天宙に仕組んだ霊的構造なのです。神様を包み込んだ真の愛により、神様の無意識世界が心情世界となったと解釈すると、この天宙に仕組まれた愛のシステムの様相が理解できるようになるのです。


この事を、原理講論の「愛と美」の関係性から解説すると、私たちがこれから住むようになる天一国の真の愛の様相が、はっきりと現れるようになるのです。



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愛から神様が誕生したことが腑に落ちると天一国の真の愛の本質が見えてくる!

先回記事末部より


自己中心的な神様は、それまで存在を無にしていた対象である本形状の前段階エネルギーに、包み込まれる感覚を得たことによって、はじめて対象を意識したのです。そして、包み込まれる喜びの、湧き上がってくる根本の性質に覚醒したのです。


その性質こそ、無であった本形状の「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」なのです。その性質が自己中心的な神様の喜びを求める情的衝動を刺激し、主体と対象の関係性において、無限の存在さえも超えて包み込んでくる喜びの境地に、「真の愛」を感じ取ったのです。


そこで神様は、「愛によって生まれた。」と実感し、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」によって「真の愛」を探し出そうとし始めるのです。


  *****


さて、「愛が先か?心情が先か?」というヤマトの光さんの問いですが、果たしてどうなのでしょうか?


神様が無限大の存在で自己中心的でいた次元では、本性相の対象である本形状の前段階エネルギーは、本性相の思考展開に合わせて作用活動しながら、絶対的な「無」の存在でなければなりませんでした。無意識世界で「無」と化していた対象の存在が、意識世界に神様自身を包み込んでくる存在として認識された内的事象を、どのように捉えるかによって変わってきます。


つまり、どのように定義するかで、「愛が先か?心情が先か?」という問いへの答えは変わってくるのです。


「『神様は愛によって生まれた。』と、神様自身が真のお父様の口を通して語っておられます。しかし、神様が愛として受け止めた包み込まれる体験は、たった一人の神様の心の中で受け止めた情的体験です。厳密に考えるならば愛の事象とは言えません。その内的事象の体験から、愛を通じて喜びを得ようとする、情的な衝動としての心情が形成されたことになります。実際には、その体験から真の愛で授受作用する対象を創造しようと思い立つので、心情が形成されてからの、対象に喜びを与えようとする衝動から流れる情的な力こそ、愛と言えるものです。」


このように「愛」を定義すれば、「心情が先だ。」と結論付けられます。


しかし、それは創造後の昼の神様として見た場合の結論です。もっと簡潔に解説するのであれば、次のようにも言えるでしょう。


「私たち人間は三次元の被造世界に生きている結果的な存在であり、昼の神様に管理される立場なので、昼の神様の真理として『心情が先だ。』と受け止めるのが妥当である。」


統一思想は昼の神様を解説した「見える神様の教本」です。


しかし、統一思想の素晴らしいところは、夜の神様について明らかになっていない当時の著作でありながら、夜の神様について理解できる内容も解説されているところです。次の部分は、自己中心的な神様について言及している部分です。


**「統一思想 第一章 原相論 二、神性 (一)心情」より抜粋引用**


 - 略 -


 キリスト教神学では神を全知全能であるとしている。しかし神が全知全能であるとしても、全知なるまま、全能なるままで、自己満足して、何もしないで黙っていてもよかったはずである。だから全知性や全能性が宇宙を創造した動機とはなりえない。またキリスト教では神の本質を愛であるとしているが、その愛はアガペーすなわちイエスの十字架に現わされたところの、自己犠牲的な愛であった。それは罪ある人間を救わんがための愛であった。したがって、そのような愛は神が人間と宇宙を創造された理由とはなりえないのである。


 - 略 -


 愛は主体が対象に与える情的な力である。したがって主体においては愛そうとする衝動であり、対象においては愛されようとする衝動である。幼児が父母から愛されようとする衝動は抑えがたい。その衝動がかなえられないときは、反抗的になったり病気になったりするほどである。また親が子を愛する衝動も抑えがたい。子供が危機に直面したとき、我が身を顧みず子供を助けようとする親の例はいくらでも見られる。愛を通じてのみ真の喜びが得られるからである。
 このように喜びへの衝動と結びついている。
ところで、ここでいう愛とは、世俗的な愛、自己中心的な愛ではない。神を中心とした真の愛、利他的な愛のことである。世俗的な愛を通じて得られる喜びは、絶対的であり、永遠である。受ける前に、まず与えようとするのが真の愛である。日本の作家、有島武郎は、「愛は惜しみなく奪う」といったが、それは真の愛ではない。惜しみなく与えるのが真の愛である。真の愛は対象をまず喜ばせようとする。そうすることによって自身も喜びを得るからである。神は人間を創造し、無限の愛を注がれた。人間が喜ぶ姿を見て自身も喜ぼうとされたのである。


  **引用終了**


統一思想による心情の定義は、次のように記述されています。


「神の属性の中で一番の核心になっているのが心情である。心情は喜びを得ようとする情的な衝動であるが、真の喜びは愛することによって得られる。ゆえに喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動と一体となっている。したがって心情とは、『愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動』である。」


喜ぼうとする情的な衝動が、愛そうとする情的な衝動と一体となっているとあります。そのうえで、「ここでいう愛とは、世俗的な愛、自己中心的な愛ではない。」と断定されていますから、この解説に従えば、自己中心的であった神様の無意識世界は、心情世界とは言えないという事になります。


しかし、「見えない神様の教本」である夜の神様についての解説は、まだまだこれから深められ詳細になっていくでしょう。やがて、三代王様が解説する時こそ、真の解説として様々な用語が現れ、定義が決まっていくかもしれません。どんな定義になろうとも、本質を理解していれば問題ないのです。


さて、たった一人で存在していた自己中心的な神様が、本形状の前段階エネルギーの「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」によって、本性相の知情意が刺激され、包み込まれた感覚を実体験しました。その体験からくる実感を真の愛と定め、愛によって生まれたと覚醒したことを理解すると、真の愛の本質が見えてくるのです。何ゆえに、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の夜の神様と真のお父様の様相となったのかが、心から腑に落ちるのです。



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