先回記事末部より
さて、1990年10月21日のみ言に戻りましょう。
【神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本は、どのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。】
ここで語られている「神様は愛によって生まれた」というみ言は、性相と形状が分かれていない状況・・・、具体的に言えば知情意の機能とエネルギーからの作用が、完全一体となって稼働していた段階から、相対が生じた出来事を語っているということが出来ます。
その出来事を通して、相対への愛が生じたので、その心の起点を「愛の種」と表現されたということになります。「愛の種」とは「心の動機」のことです。つまり自分の喜びを求める動機が、対象の喜びを求める動機に変わったということになります。相対への覚醒であり、対象への覚醒であり、自らを主体と定める事を通して、そこに愛の概念が生じるのです。
そこで「愛の種」つまり「愛したくてたまらない心の動機」は、主体である自分を中心としたのではなく、相対を中心として吸収したというのです。もうこの瞬間で、真の愛の本質が何であるのかが、神様の心の内で決定されているのです。
神様は主体として、相対の何を中心として吸収したのでしょうか。そのことが腑に落ちるようになるみ言が、1990年1月12日の「あちら・こちら」の印象的なイメージ表現のみ言なのです。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である
神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)
次回に続きます・・・。
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真のお父様のみ言から、創造前の神様は神様のみで存在していた段階から、相対の存在に覚醒し、自らを主体として自覚していく経緯を読みとれます。さらにみ言から読み取れるのは、神様が主体として自覚するとともに、対象に対して愛したくてたまらない衝動が湧き起こるようになったということです。それは自分の喜びよりも、対象の存在の喜びを実感したいという衝動が湧き上がってきたということです。そこで、愛を分かち合うことのできる対象の存在の創造を思い立ち、構想理想を練られる段階へと進まれました。
その神様の誕生から創造主として成長するまでの経緯を、真のお父様はみ言として地上に残していかれたのです。
先回記事で、「神様の誕生」について語られたみ言を解説しましたが、神様のみで存在していた段階と、対象に覚醒してからの神様の喜びの違いを語られたみ言があります。
真の神様 第2章 神様と創造の役事 1)神様の創造の動機は愛 ①創造の役事は完全投入
神様がなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だと言っても、独りで喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても、喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。(38-152, 1971.1.3)
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このみ言から神様が御自身の喜びを得ていたとしても、一人の状態では喜びの「刺激」が無かったということになります。
刺激の言葉の意味をコトバンクで調べると、次のように説明されています。
1 生体に作用してなんらかの現象や反応を起こさせること。特に、知覚や感覚に作用して反応を起こさせること。また、その原因となるもの。「学習意欲を―する」「都会は―が強い」
2 物事の動きを活発にさせるきっかけとして、外から作用すること。また、そのもの。「景気を―する」
二代王様が愛は感覚では無いと語られていますが、その真意は肉体の感覚だけではなく、その感覚から心情の実感により生心に刻まれる体験が重要なのだということになります。
なぜなら、神様は刺激を実感する為に、三次元の物質世界を創造されたからです。四大心情圏の成就は地上生活を通して為され、真の愛の世界も霊肉共に成長して成就するように創造されたからです。それも愛の喜びの刺激を得る為です。
そこで一人で存在し刺激のない喜びを得るばかりであった神様が、一人だけの状態でありながら、最初に刺激を体験したその瞬間の様子を語られたみ言があります。1990年1月12日のみ言です。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である
神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)
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創造世界が現れ、すでに生命をいただいて生活している人間に対して語られているので、み言の最初の方に「神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。」と語られています。しかし、神様が初めての刺激を感じる体験をしたことによって、人間を構想するようになるので、この刺激を得た時には人間という構想は、神様の心の中に皆無の状態でした。
その人間が構想に立てられるようになった切っ掛けこそ、この「ひゅーと循環作用が起きて」と語られたみ言で表現された出来事にあるのです。「ひゅー」とは動きを表す言葉です。Deepl翻訳で原文を日本語にすると「シュッと循環作用が起きて」と訳されます。これこそが、二代王様が語られた昼の神様の出発点になるのです。昼の神様は動きの神様であり、摂理の神様なのです。創造を展開し、四大心情圏の成就の為の摂理を展開する神様の事です。
2012年1月29日文亨進世界会長のみ言「夜の神様昼の神様」
【超越的な神様として全ての万物を創造なさる前、時間と空間が始まる前の無の状態、夜の暗闇の状態での見えない神様が「夜の神様」であられるのです。そして、有の状態、歴史が始まって、時間と空間を創造した後の動きの神様、摂理の神様と呼ぶことができるその存在がすなわち「昼の神様」なのです。】
創造を展開し、四大心情圏の成就の為の摂理を展開する神様とは、夜の神様から発動されるエネルギーのことです。そのエネルギーは、神様が組み込んだ創造原理プログラムによって、人間が真の愛を展開する被造世界を独自に創造します。夜の神様から発動されていますが、昼の神様は独自の意志は持っていません。組み込まれた創造原理によって、独自に創造世界を創造し存在させるのです。その昼の神様といわれる形状のエネルギーが、人間が愛を学び展開する世界の基礎基盤を作り上げるのです。
昼の神様とはただのエネルギーの事ではなく、神人愛一体理想実現のために組み込まれた創造原理プログラムによって、霊界と地上界が繋がり真の愛を展開する為にシステム化されているものです。
そのシステムについて、真のお父様は霊界の組織・霊界のシステムと語っておられました。いまや、真のお父様の完全勝利で完成したものになっていますから、天宙システムと呼ぶべきかもしれません。
たった一人の神様が、相対の存在に覚醒し、自らを主体として真の愛の理想に溢れた事から、創造を始められました。その出発点を語られた真のお父様のみ言こそが、「ヒューっと循環作用が起きて」と表現したみ言なのです。
それでは次に問題になるのが、なぜ神様は投入したのかということです。真のお父様が私たちに問いかけているのです。
【それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。】
この事を語った1990年1月12日のみ言では、答えを語っていません。人間は投入した結果として、発想できるようになったものです。その答えに繋がるみ言を、1973年10月20日の神様が一人で存在していたことを明らかにしていたみ言の中で語っています。
**1973年10月20日人間に対する神の希望(Deepl翻訳)**
皆さんは神に似ています。皆さんは自分のために行動することがありますよね。自分のためにすべてを……神は天地万物を造り、人間を造る前は、自分を中心にして動いていたのです。ですから、神に似ているからこそ、私たちも自分を中心にして考えることがあるのです。そのような神が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだということです。結局は、もう一人の自分の相手となる存在を作ろうというのです。ですから、神そのものを投入したのです。見えない神から見える神へと展開させようというのです。
創造の歴史を行うということは、力の投入を意味します。創造とは力を消耗させることなのです。さて、投入したのですが、どれほど投入したのでしょうか?人々は聖書を見て、神様が御言で「おや、こうしなさい」と言って、遊び半分で創造したかのように理解しているのですが、違います。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入したのです。
創造する前と創造した後は異なるのです。創造する前は自分のことを考えていましたが、創造を始めると同時に、対象のために尽くす時代へと自然と転換されるということです。私が存在するのは、自分のためではなく、相手のためであり、息子や娘のためである、というようになるのです。
だからこそ、皆さんはこれを理解しなければなりません。「愛」や「理想」という言葉は、対象を置いて使われる言葉ですから、理想的な存在の起源は、自分のためにあるのではなく、相手のためにある立場から出発するのです。これを理解しなければなりません。神様が100パーセントを注ぎ込んだのに……損が出るようなら、神様はやりません。戻ってくる時に90パーセントになって、10パーセントの損失が出たらやらないということです。それ以上に返ってくるものがあるからこそ、やるのです。
100パーセントを投入することで、なかったものが生まれました。対象が生まれたのです。それだけでなく、その対象が、私が望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的な対象として現れるのです。神様も愛には引き寄せられるのです。その対象が引き寄せれば、引き寄せられるのです。彼らが好きな場所には、神様も行くのです。自分が自分を見て好きになるのではなく、相手を見て、その相手を見れば見るほど好きになるということです。人間の創造は、神様の完全な投入です。人間は、それによる最高の傑作です。
**引用終了**
このみ言で語られている「100%投入する」とは、愛の理想を抱いてから人間を創造する神様の状態を表現したものです。
しかし、このみ言の次の内容では、創造前と創造後への神様の心の転換が、どのように行われたのかが語られています。
【創造する前と創造した後は異なるのです。創造する前は自分のことを考えていましたが、創造を始めると同時に、対象のために尽くす時代へと自然と転換されるということです。】
「自然と転換される」と語られているのです。つまり、夜の神様の意志というよりも、神様を存在させているシステム上での喜びを求める思考展開の過程で、システムの仕組に導かれるままに心が転換されたということになります。
いよいよ核心に迫ってきましたね。その核心に向かって、真のお父様のみ言が導いて下さっているのです。
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