先回記事末部より
このみ言で語られている100%投入するとは、愛の理想を抱いてから人間を創造する神様の状態を表現したものです。
しかし、このみ言の次の内容から、創造前と創造後への神様の心の転換が、どのように行われたのかが語られています。
【創造する前と創造した後は異なるのです。創造する前は自分のことを考えていましたが、創造を始めると同時に、対象のために尽くす時代へと自然と転換されるということです。】
「自然と転換される」と語られているのです。つまり、夜の神様の意志というよりも、神様を存在させているシステム上での喜びを求める思考展開の過程で、システムの仕組に導かれるままに心が転換されたということになります。
さあ、いよいよ核心に迫ってきましたね。その核心に向かって、真のお父様のみ言が導いて下さっているのです。
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たった一人でおられた段階の神様にとっての存在目的は、神様御自身の喜びを得ることでした。真のお父様もそのことについては明らかにされています。
1973年10月20日人間に対する神の希望より(御旨と世界の翻訳)
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」
その為の、神様自体を存在させていたシステムがあるはずです。真のお父様の比喩と象徴を用いた詩的文体で語られたみ言は、私たちが一般的に得ている知識や学識で真意を考えれば、答えが見えてくるギリギリのところまで表現し語られています。それは私たち祝福家庭が、自分で解いていかなければならない責任分担を残していると考えられます。
たった一人で存在していた神様は、永遠無限の存在ですから知情意の機能による思考展開も、三次元世界で人間が思考するのとは次元が違います。主体と対象という概念もまだ無いのですから、授受作用もありませんし、物質世界を形成する為のエネルギーから始まる原子や分子の球形運動も概念にありません。
二代王様のみ言により明確になっている事は、神様にも意識世界と無意識世界があるということです。対象の存在に覚醒することによって、対象として構想したもう一人の自分こそ三位一体となるキリストであり真の父ということになります。
2021年7月28日二代王様のみ言より
【ですから、わかりやすく言えば、神様の心、神様の無意識世界、見えない心情世界を表現する実体として出てこられた主と再臨主、イエス様と再臨のイエス、真のお父様に会うことによって、分かることによって、私たちは神様の無意識世界と世界を分かるようになります。】
1973年10月20日真のお父様のみ言より「人間に対する神の希望」(Deepl翻訳)
【皆さんは神に似ています。皆さんは自分のために行動することがありますよね。自分のためにすべてを……神は天地万物を造り、人間を造る前は、自分を中心にして動いていたのです。ですから、神に似ているからこそ、私たちも自分を中心にして考えることがあるのです。そのような神が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだということです。結局は、もう一人の自分の相手となる存在を作ろうというのです。ですから、神そのものを投入したのです。見えない神から見える神へと展開させようというのです。】
神様の無意識世界を表現する実体として出て来られた真のお父様です。神様のみで存在していた次元から、対象の存在に覚醒することによって、神様の対象でありながら神様(自分)そのものとなる真のお父様の聖誕構想が立てられました。
神様の本質から出て来られた真のお父様ですから、神様の本質で起こった事実をみ言として残してくださったのです。そのみ言の解説は、難解な内容でもあるので幾度も読み込まないと理解できないでしょう。次の解説内容も、すでにこのブログで記述した内容をまとめた形を取っています。
神様が一人で存在していた段階では、神様の無意識世界から溢れ出る喜びを求める情によって、知情意の心の機能が働き、意識世界を形成していました。
人間の脳は、外界の情報を目・耳・鼻・口・体で視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の情報として感じとり、電気信号に変換されて脳に入ります。その電気信号が脳内のスクリーンに映し出されるようにして、存在している外界の状態を認識するようになります。
脳内のスクリーンというのは、脳に入って来た電気信号を、再び脳内で外界から得た視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の情報通りに再現する仕組みを例えたものです。すると、外界が無くても、外界の情報の電気信号だけ脳内で作り出せれば、脳の仕組みの中でどんな外界の環境圏でも、自由に顕現させることが出来ることになります。
そのように神様は自分の思考のみで、永遠無限の次元の存在環境圏を顕現させていたと考えられるのです。
つまり、神様の性相の知情意の機能が、性相内の内的性相と内的形状の授受作用によって思考展開されていましたが、すでにここで性相に対して、形状からのエネルギーの作用が来ているということになります。
ここでの授受作用は知情意の機能と、エネルギーによって生じる作用が、完全一体となっているので機能と作用は区別する境界線も無く、同時遂行されていたということになります。知情意の機能は作用があって働き、作用が無ければ機能も無に帰しているのです。つまり、神様のみの存在で、思考だけで存在環境圏が顕現していた段階では、機能と作用は分けようもなく一体だったということになるのです。
神様の性相の知情意の機能と、そこに作用として働く形状のエネルギーは、完全一体となっていますから、性相と形状が分けられていない状態です。すでに形状として想像された被造世界に生きる人間から見たならば、性相と形状が分かれていない状態というのは想像しかねるでしょう。
しかし、その状態こそが神様のみで存在していた段階の、神様の様相です。主体も対象も分かれておらず、一と二の区別もなく、無限の状態の思考展開が、神様の存在環境圏を顕現させていたのです。
そのような神様の意識世界と無意識世界を繋ぐ思考展開のシステムにおいて、神様は知情意の思考における喜びを求めて実現し、存在の喜びを得ていました。
たった一人の神様は自らの存在の喜びを追求し、絶えずより大きな喜びを求めています。たった一人の神様は、無限な神様ですから、この段階では一人という概念も自分という概念も持っていません。その神様がその存在を確認するには、絶えず知情意の機能を働かせて意識世界を展開させていなければならないのです。意識したそのものが・・・、思考したそのものが意識世界を形成し、それがそのまま神様の存在環境圏となります。
思考そのものが無限ですから、三次元世界に生きる私たち人間には想像することも出来ない神様の本質世界です。
しかし、その無限の存在環境圏を、神様が意識世界として顕現させることのできる原理原則は想定することが出来ます。神様の知情意の機能で展開する意識世界と、神様の核心となる情的動機を形成する無意識世界があります。この無意識世界と意識世界が神様の性相、つまり心を形成しており、その心を顕現させる為の形状である前段階エネルギーの存在があることは分かります。
ただここでの注意点は、性相と形状の二性性相という様相を取りながら、形状のエネルギーの存在は絶対無となって働いているということです。それは、神様に似せて造られた人間の意識世界を思い計れば、想定できるのではないでしょうか。人間が知情意の機能を用いて思考展開する時に、意識の展開と共にエネルギーの何らかの働きを感じるでしょうか。心の思考を展開するだけでも、エネルギーが働いているわけですが、そんなことは一切感じ取ることはありません。つまり、心を働かせるエネルギーの存在は、絶対的な無となって作用しているということになります。
神様の意識世界の展開も同じであることは、想定できると思います。ですから一人の存在の段階の神様の様相は、性相と形状の二性性相ではあるけれど、形状は存在的に無となっているので、神様の感覚として感じ取るのは性相のみということになります。形状は存在的に絶対的な無として働いてこそ、自らの喜びの存在環境圏を作り出せていたのですから、全知全能と言えども形状に相対としての存在を与える発想は浮かばないということになるのです。
神様は無限永遠ですが、より大きな存在の喜びを追求していく過程で、必ず一人で顕現させる喜びの環境圏には限界が訪れます。神様は全知全能ですから、無限永遠の喜びを創り出す可能性があったとしても、神様のみの次元で得られる喜びには限界が来ることを察知するでしょう。
全知全能の絶対者なのに、なぜ限界が来るのと、不思議に思うかもしれません。
しかし、考えてみて下さい。たった一人の神様には、まだ永遠無限の状態であり、一人とか自分という概念も無いのです。永遠無限の次元の中で展開させる思考では、まず自分自身という存在に覚醒することも困難であったということです。自分という存在が現れるということは、対象という相対が現れるということです。
神様が一人で存在していた次元では、神様の生きる核心である喜びを求める情的動機は、無意識世界にあり潜在しているものなのです。つまり、意識世界において絶えず知情意の思考展開を喜びとしている神様にとって、生きる為の情的衝動が湧き上がる根本的な動機は、絶対的な無となって無意識世界に潜在しているのです。
たった一人で存在している神様が、一人で得られる喜びの実感を超える喜びを求める段階になると、そこで知情意の機能が働かなくなります。良いでしょうか。私たちが理解できる為に、「一人で得られる喜びの実感を超える喜びを求めると」と表現しましたが、神様には自分という概念も、一人という概念もまだ無い状態でのことなのです。「無限の神様の状態を超える喜びを求め始めた」と、表現することも出来るでしょう。
そこで無限の神様の状態の超える喜びを求めると、構想が浮かばなくなり、知情意の機能が停止するのです。つまり、喜びを得ようと投入し、投入し、投入した果てに、意識世界にどんな思考をも浮かばなくなるのです。
この意識の上で、また思考の上で完全に無になった状態を、1990年1月12日のみ言で、「完全に投入して神様はゼロの位置、無になり」と語られました。そして、初めて相対の存在に覚醒した瞬間を、次のように語られたのです。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である
神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)
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「こちら」が性相のことであり、「あそこ、あちら」が形状の事を表現したみ言となります。このイメージ的に表現されたみ言を、もっと具体的に理解できるように表現されたみ言が、2010年4月4日に語られました。
2010年4月4日真のお父様のみ言
太陽があるなら、太陽にも月の輪(ハロ)のようなものがあります。それを重要視しなければなりません。宇宙の根本を、月の輪がなければ解説できません。
闇があるなら、その闇の群れがあるということです。真っ黒な闇の群れは光です。闇と光は違いません。闇の群れとは光のことです。こんな話、初めて聞きますか?光はどこから生じたのでしょうか?七色を合わせると黒色になります。
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神様の思考展開が、光に例えられて語られているみ言です。次回に解説します。
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