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真のお父様が祝福家庭に最も悟ってほしかった真の愛の覚醒の瞬間を語ったみ言!

諸星くると

先回記事末部より


このみ言で語られている100%投入するとは、愛の理想を抱いてから人間を創造する神様の状態を表現したものです。


しかし、このみ言の次の内容から、創造前と創造後への神様の心の転換が、どのように行われたのかが語られています。


【創造する前と創造した後は異なるのです。創造する前は自分のことを考えていましたが、創造を始めると同時に、対象のために尽くす時代へと自然と転換されるということです。】


「自然と転換される」と語られているのです。つまり、夜の神様の意志というよりも、神様を存在させているシステム上での喜びを求める思考展開の過程で、システムの仕組に導かれるままに心が転換されたということになります。


さあ、いよいよ核心に迫ってきましたね。その核心に向かって、真のお父様のみ言が導いて下さっているのです。


  *****


たった一人でおられた段階の神様にとっての存在目的は、神様御自身の喜びを得ることでした。真のお父様もそのことについては明らかにされています。


1973年10月20日人間に対する神の希望より(御旨と世界の翻訳)

「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 


その為の、神様自体を存在させていたシステムがあるはずです。真のお父様の比喩と象徴を用いた詩的文体で語られたみ言は、私たちが一般的に得ている知識や学識で真意を考えれば、答えが見えてくるギリギリのところまで表現し語られています。それは私たち祝福家庭が、自分で解いていかなければならない責任分担を残していると考えられます。


たった一人で存在していた神様は、永遠無限の存在ですから知情意の機能による思考展開も、三次元世界で人間が思考するのとは次元が違います。主体と対象という概念もまだ無いのですから、授受作用もありませんし、物質世界を形成する為のエネルギーから始まる原子や分子の球形運動も概念にありません。


二代王様のみ言により明確になっている事は、神様にも意識世界と無意識世界があるということです。対象の存在に覚醒することによって、対象として構想したもう一人の自分こそ三位一体となるキリストであり真の父ということになります。


2021年7月28日二代王様のみ言より

【ですから、わかりやすく言えば、神様の心、神様の無意識世界、見えない心情世界を表現する実体として出てこられた主と再臨主、イエス様と再臨のイエス、真のお父様に会うことによって、分かることによって、私たちは神様の無意識世界と世界を分かるようになります。】


1973年10月20日真のお父様のみ言より「人間に対する神の希望」(Deepl翻訳)

【皆さんは神に似ています。皆さんは自分のために行動することがありますよね。自分のためにすべてを……神は天地万物を造り、人間を造る前は、自分を中心にして動いていたのです。ですから、神に似ているからこそ、私たちも自分を中心にして考えることがあるのです。そのような神が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだということです。結局は、もう一人の自分の相手となる存在を作ろうというのです。ですから、神そのものを投入したのです。見えない神から見える神へと展開させようというのです。】


神様の無意識世界を表現する実体として出て来られた真のお父様です。神様のみで存在していた次元から、対象の存在に覚醒することによって、神様の対象でありながら神様(自分)そのものとなる真のお父様の聖誕構想が立てられました。


神様の本質から出て来られた真のお父様ですから、神様の本質で起こった事実をみ言として残してくださったのです。そのみ言の解説は、難解な内容でもあるので幾度も読み込まないと理解できないでしょう。次の解説内容も、すでにこのブログで記述した内容をまとめた形を取っています。


神様が一人で存在していた段階では、神様の無意識世界から溢れ出る喜びを求める情によって、知情意の心の機能が働き、意識世界を形成していました。


人間の脳は、外界の情報を目・耳・鼻・口・体で視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の情報として感じとり、電気信号に変換されて脳に入ります。その電気信号が脳内のスクリーンに映し出されるようにして、存在している外界の状態を認識するようになります。


脳内のスクリーンというのは、脳に入って来た電気信号を、再び脳内で外界から得た視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の情報通りに再現する仕組みを例えたものです。すると、外界が無くても、外界の情報の電気信号だけ脳内で作り出せれば、脳の仕組みの中でどんな外界の環境圏でも、自由に顕現させることが出来ることになります。


そのように神様は自分の思考のみで、永遠無限の次元の存在環境圏を顕現させていたと考えられるのです。


つまり、神様の性相の知情意の機能が、性相内の内的性相と内的形状の授受作用によって思考展開されていましたが、すでにここで性相に対して、形状からのエネルギーの作用が来ているということになります。


ここでの授受作用は知情意の機能と、エネルギーによって生じる作用が、完全一体となっているので機能と作用は区別する境界線も無く、同時遂行されていたということになります。知情意の機能は作用があって働き、作用が無ければ機能も無に帰しているのです。つまり、神様のみの存在で、思考だけで存在環境圏が顕現していた段階では、機能と作用は分けようもなく一体だったということになるのです。


神様の性相の知情意の機能と、そこに作用として働く形状のエネルギーは、完全一体となっていますから、性相と形状が分けられていない状態です。すでに形状として想像された被造世界に生きる人間から見たならば、性相と形状が分かれていない状態というのは想像しかねるでしょう。


しかし、その状態こそが神様のみで存在していた段階の、神様の様相です。主体も対象も分かれておらず、一と二の区別もなく、無限の状態の思考展開が、神様の存在環境圏を顕現させていたのです。


そのような神様の意識世界と無意識世界を繋ぐ思考展開のシステムにおいて、神様は知情意の思考における喜びを求めて実現し、存在の喜びを得ていました。


たった一人の神様は自らの存在の喜びを追求し、絶えずより大きな喜びを求めています。たった一人の神様は、無限な神様ですから、この段階では一人という概念も自分という概念も持っていません。その神様がその存在を確認するには、絶えず知情意の機能を働かせて意識世界を展開させていなければならないのです。意識したそのものが・・・、思考したそのものが意識世界を形成し、それがそのまま神様の存在環境圏となります。


思考そのものが無限ですから、三次元世界に生きる私たち人間には想像することも出来ない神様の本質世界です。


しかし、その無限の存在環境圏を、神様が意識世界として顕現させることのできる原理原則は想定することが出来ます。神様の知情意の機能で展開する意識世界と、神様の核心となる情的動機を形成する無意識世界があります。この無意識世界と意識世界が神様の性相、つまり心を形成しており、その心を顕現させる為の形状である前段階エネルギーの存在があることは分かります。


ただここでの注意点は、性相と形状の二性性相という様相を取りながら、形状のエネルギーの存在は絶対無となって働いているということです。それは、神様に似せて造られた人間の意識世界を思い計れば、想定できるのではないでしょうか。人間が知情意の機能を用いて思考展開する時に、意識の展開と共にエネルギーの何らかの働きを感じるでしょうか。心の思考を展開するだけでも、エネルギーが働いているわけですが、そんなことは一切感じ取ることはありません。つまり、心を働かせるエネルギーの存在は、絶対的な無となって作用しているということになります。


神様の意識世界の展開も同じであることは、想定できると思います。ですから一人の存在の段階の神様の様相は、性相と形状の二性性相ではあるけれど、形状は存在的に無となっているので、神様の感覚として感じ取るのは性相のみということになります。形状は存在的に絶対的な無として働いてこそ、自らの喜びの存在環境圏を作り出せていたのですから、全知全能と言えども形状に相対としての存在を与える発想は浮かばないということになるのです。


神様は無限永遠ですが、より大きな存在の喜びを追求していく過程で、必ず一人で顕現させる喜びの環境圏には限界が訪れます。神様は全知全能ですから、無限永遠の喜びを創り出す可能性があったとしても、神様のみの次元で得られる喜びには限界が来ることを察知するでしょう。


全知全能の絶対者なのに、なぜ限界が来るのと、不思議に思うかもしれません。


しかし、考えてみて下さい。たった一人の神様には、まだ永遠無限の状態であり、一人とか自分という概念も無いのです。永遠無限の次元の中で展開させる思考では、まず自分自身という存在に覚醒することも困難であったということです。自分という存在が現れるということは、対象という相対が現れるということです。


神様が一人で存在していた次元では、神様の生きる核心である喜びを求める情的動機は、無意識世界にあり潜在しているものなのです。つまり、意識世界において絶えず知情意の思考展開を喜びとしている神様にとって、生きる為の情的衝動が湧き上がる根本的な動機は、絶対的な無となって無意識世界に潜在しているのです。


たった一人で存在している神様が、一人で得られる喜びの実感を超える喜びを求める段階になると、そこで知情意の機能が働かなくなります。良いでしょうか。私たちが理解できる為に、「一人で得られる喜びの実感を超える喜びを求めると」と表現しましたが、神様には自分という概念も、一人という概念もまだ無い状態でのことなのです。「無限の神様の状態を超える喜びを求め始めた」と、表現することも出来るでしょう。


そこで無限の神様の状態の超える喜びを求めると、構想が浮かばなくなり、知情意の機能が停止するのです。つまり、喜びを得ようと投入し、投入し、投入した果てに、意識世界にどんな思考をも浮かばなくなるのです。


この意識の上で、また思考の上で完全に無になった状態を、1990年1月12日のみ言で、「完全に投入して神様はゼロの位置、無になり」と語られました。そして、初めて相対の存在に覚醒した瞬間を、次のように語られたのです。


宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である

 神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)

  ***


「こちら」が性相のことであり、「あそこ、あちら」が形状の事を表現したみ言となります。このイメージ的に表現されたみ言を、もっと具体的に理解できるように表現されたみ言が、2010年4月4日に語られました。


2010年4月4日真のお父様のみ言

 太陽があるなら、太陽にも月の輪(ハロ)のようなものがあります。それを重要視しなければなりません。宇宙の根本を、月の輪がなければ解説できません。

 闇があるなら、その闇の群れがあるということです。真っ黒な闇の群れは光です。闇と光は違いません。闇の群れとは光のことです。こんな話、初めて聞きますか?光はどこから生じたのでしょうか?七色を合わせると黒色になります。

***


神様の思考展開が、光に例えられて語られているみ言です。次回に解説します。



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真のお父様のみ言は混濁した世界から飛翔して理想を求める息子娘を天一国次元へと導きます!

諸星くると

先回記事末部より


さて、1990年10月21日のみ言に戻りましょう。


【神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本は、どのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。】


ここで語られている「神様は愛によって生まれた」というみ言は、性相と形状が分かれていない状況・・・、具体的に言えば知情意の機能とエネルギーからの作用が、完全一体となって稼働していた段階から、相対が生じた出来事を語っているということが出来ます。


その出来事を通して、相対への愛が生じたので、その心の起点を「愛の種」と表現されたということになります。「愛の種」とは「心の動機」のことです。つまり自分の喜びを求める動機が、対象の喜びを求める動機に変わったということになります。相対への覚醒であり、対象への覚醒であり、自らを主体と定める事を通して、そこに愛の概念が生じるのです。


そこで「愛の種」つまり「愛したくてたまらない心の動機」は、主体である自分を中心としたのではなく、相対を中心として吸収したというのです。もうこの瞬間で、真の愛の本質が何であるのかが、神様の心の内で決定されているのです。


神様は主体として、相対の何を中心として吸収したのでしょうか。そのことが腑に落ちるようになるみ言が、1990年1月12日の「あちら・こちら」の印象的なイメージ表現のみ言なのです。


宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である

 神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)


次回に続きます・・・。


  *****


真のお父様のみ言から、創造前の神様は神様のみで存在していた段階から、相対の存在に覚醒し、自らを主体として自覚していく経緯を読みとれます。さらにみ言から読み取れるのは、神様が主体として自覚するとともに、対象に対して愛したくてたまらない衝動が湧き起こるようになったということです。それは自分の喜びよりも、対象の存在の喜びを実感したいという衝動が湧き上がってきたということです。そこで、愛を分かち合うことのできる対象の存在の創造を思い立ち、構想理想を練られる段階へと進まれました。


その神様の誕生から創造主として成長するまでの経緯を、真のお父様はみ言として地上に残していかれたのです。


先回記事で、「神様の誕生」について語られたみ言を解説しましたが、神様のみで存在していた段階と、対象に覚醒してからの神様の喜びの違いを語られたみ言があります。


真の神様 第2章 神様と創造の役事 1)神様の創造の動機は愛 ①創造の役事は完全投入

 神様がなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だと言っても、独りで喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても、喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。(38-152, 1971.1.3)

  ***


このみ言から神様が御自身の喜びを得ていたとしても、一人の状態では喜びの「刺激」が無かったということになります。


刺激の言葉の意味をコトバンクで調べると、次のように説明されています。


1 生体に作用してなんらかの現象や反応を起こさせること。特に、知覚や感覚に作用して反応を起こさせること。また、その原因となるもの。「学習意欲を―する」「都会は―が強い」

2 物事の動きを活発にさせるきっかけとして、外から作用すること。また、そのもの。「景気を―する」


二代王様が愛は感覚では無いと語られていますが、その真意は肉体の感覚だけではなく、その感覚から心情の実感により生心に刻まれる体験が重要なのだということになります。


なぜなら、神様は刺激を実感する為に、三次元の物質世界を創造されたからです。四大心情圏の成就は地上生活を通して為され、真の愛の世界も霊肉共に成長して成就するように創造されたからです。それも愛の喜びの刺激を得る為です。


そこで一人で存在し刺激のない喜びを得るばかりであった神様が、一人だけの状態でありながら、最初に刺激を体験したその瞬間の様子を語られたみ言があります。1990年1月12日のみ言です。


宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である

 神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)

  ***


創造世界が現れ、すでに生命をいただいて生活している人間に対して語られているので、み言の最初の方に「神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。」と語られています。しかし、神様が初めての刺激を感じる体験をしたことによって、人間を構想するようになるので、この刺激を得た時には人間という構想は、神様の心の中に皆無の状態でした。


その人間が構想に立てられるようになった切っ掛けこそ、この「ひゅーと循環作用が起きて」と語られたみ言で表現された出来事にあるのです。「ひゅー」とは動きを表す言葉です。Deepl翻訳で原文を日本語にすると「シュッと循環作用が起きて」と訳されます。これこそが、二代王様が語られた昼の神様の出発点になるのです。昼の神様は動きの神様であり、摂理の神様なのです。創造を展開し、四大心情圏の成就の為の摂理を展開する神様の事です。


2012年1月29日文亨進世界会長のみ言「夜の神様昼の神様」

【超越的な神様として全ての万物を創造なさる前、時間と空間が始まる前の無の状態、夜の暗闇の状態での見えない神様が「夜の神様」であられるのです。そして、有の状態、歴史が始まって、時間と空間を創造した後の動きの神様、摂理の神様と呼ぶことができるその存在がすなわち「昼の神様」なのです。】


創造を展開し、四大心情圏の成就の為の摂理を展開する神様とは、夜の神様から発動されるエネルギーのことです。そのエネルギーは、神様が組み込んだ創造原理プログラムによって、人間が真の愛を展開する被造世界を独自に創造します。夜の神様から発動されていますが、昼の神様は独自の意志は持っていません。組み込まれた創造原理によって、独自に創造世界を創造し存在させるのです。その昼の神様といわれる形状のエネルギーが、人間が愛を学び展開する世界の基礎基盤を作り上げるのです。


昼の神様とはただのエネルギーの事ではなく、神人愛一体理想実現のために組み込まれた創造原理プログラムによって、霊界と地上界が繋がり真の愛を展開する為にシステム化されているものです。


そのシステムについて、真のお父様は霊界の組織・霊界のシステムと語っておられました。いまや、真のお父様の完全勝利で完成したものになっていますから、天宙システムと呼ぶべきかもしれません。


たった一人の神様が、相対の存在に覚醒し、自らを主体として真の愛の理想に溢れた事から、創造を始められました。その出発点を語られた真のお父様のみ言こそが、「ヒューっと循環作用が起きて」と表現したみ言なのです。


それでは次に問題になるのが、なぜ神様は投入したのかということです。真のお父様が私たちに問いかけているのです。


【それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。】


この事を語った1990年1月12日のみ言では、答えを語っていません。人間は投入した結果として、発想できるようになったものです。その答えに繋がるみ言を、1973年10月20日の神様が一人で存在していたことを明らかにしていたみ言の中で語っています。


**1973年10月20日人間に対する神の希望(Deepl翻訳)**


 皆さんは神に似ています。皆さんは自分のために行動することがありますよね。自分のためにすべてを……神は天地万物を造り、人間を造る前は、自分を中心にして動いていたのです。ですから、神に似ているからこそ、私たちも自分を中心にして考えることがあるのです。そのような神が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだということです。結局は、もう一人の自分の相手となる存在を作ろうというのです。ですから、神そのものを投入したのです。見えない神から見える神へと展開させようというのです。


 創造の歴史を行うということは、力の投入を意味します。創造とは力を消耗させることなのです。さて、投入したのですが、どれほど投入したのでしょうか?人々は聖書を見て、神様が御言で「おや、こうしなさい」と言って、遊び半分で創造したかのように理解しているのですが、違います。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入したのです。


 創造する前と創造した後は異なるのです。創造する前は自分のことを考えていましたが、創造を始めると同時に、対象のために尽くす時代へと自然と転換されるということです。私が存在するのは、自分のためではなく、相手のためであり、息子や娘のためである、というようになるのです。


 だからこそ、皆さんはこれを理解しなければなりません。「愛」や「理想」という言葉は、対象を置いて使われる言葉ですから、理想的な存在の起源は、自分のためにあるのではなく、相手のためにある立場から出発するのです。これを理解しなければなりません。神様が100パーセントを注ぎ込んだのに……損が出るようなら、神様はやりません。戻ってくる時に90パーセントになって、10パーセントの損失が出たらやらないということです。それ以上に返ってくるものがあるからこそ、やるのです。


 100パーセントを投入することで、なかったものが生まれました。対象が生まれたのです。それだけでなく、その対象が、私が望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的な対象として現れるのです。神様も愛には引き寄せられるのです。その対象が引き寄せれば、引き寄せられるのです。彼らが好きな場所には、神様も行くのです。自分が自分を見て好きになるのではなく、相手を見て、その相手を見れば見るほど好きになるということです。人間の創造は、神様の完全な投入です。人間は、それによる最高の傑作です。


  **引用終了**


このみ言で語られている「100%投入する」とは、愛の理想を抱いてから人間を創造する神様の状態を表現したものです。


しかし、このみ言の次の内容では、創造前と創造後への神様の心の転換が、どのように行われたのかが語られています。


【創造する前と創造した後は異なるのです。創造する前は自分のことを考えていましたが、創造を始めると同時に、対象のために尽くす時代へと自然と転換されるということです。】


「自然と転換される」と語られているのです。つまり、夜の神様の意志というよりも、神様を存在させているシステム上での喜びを求める思考展開の過程で、システムの仕組に導かれるままに心が転換されたということになります。


いよいよ核心に迫ってきましたね。その核心に向かって、真のお父様のみ言が導いて下さっているのです。



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数十年の間にわたって理解できなかった真のお父様の真実真意を今こそ息子娘として分かり合おう!

諸星くると

先々回記事末部より


1990年1月12日の「あそこ・あちら・こちら」のみ言を理解するには、まず1990年10月21日のみ言で語られる「愛の種」が、何を意味するものなのかを探る必要があります。「種」は3次元世界の生命体があってこそ、意味を持つ言葉となるものです。神様の思考だけで展開されていた無限世界には、まだ「種」という発想すら出てきません。


ですからそれは、神様の心の世界のことであり、思考展開で成り立つ世界においての「種」は何かといえば、生命の起点となるものです。そうであるならば当然のように、心における愛の成長に焦点を合わせれば、「心の動機」となるのではないでしょうか。


つまり、神様自身の喜びを求める心の動機から、対象の喜びを求める心の動機に変わり、神様の愛が成長されていくことを語っておられるのです。神様が対象の存在に覚醒し、対象の喜びを中心としてみたところ、神様は性相と形状で構成されるようになったという意味になるということです。


この「相対を中心にして吸収してみたところ・・・」というみ言を、理解の為の鍵となるみ言として探してみると、1990年1月12日のみ言が浮かび上がってくるのです。主体としての神様の性相が無の境地になると、高気圧となった形状から、ヒューッ(Deepl翻訳ではシュッ)と循環作用が起きるというみ言を語られています。このみ言では、性相が「こちら」と表現され、形状は「あちら・あそこ」と表現されています。神様は相対として受け止めるようになった形状の、何を中心として吸収したのかということが理解する為の鍵になるのです。


それは神様の心の動機を形成するものとして、成長する現象として現れた事なのです。


この最重要な解説は、次回の記事で説明していきましょう。


先回記事重要部分


だからこそ、理論や知識で理解しようとするのではなく、神様の心情と相対して心の門が合わさる境地を求めなければならないのです。


これから、真のお父様の高次元な詩的文体の解説に入っていきます。「あちら・こちら」「愛の種・生命の種」など、三次元世界の実感から理解できる言葉では無いのです。


引用したみ言に、次の一文があります。


【平面的に見えるある像が問題なのではなく、その形相の中に隠され、複雑な宇宙観が込められている内的な相こそが、あらゆる価値の起源なのです。】


「内的な相」と語られていますが、「あちら・こちら」「愛の種・生命の種」と表現されたみ言は、神様の性相のさらに奥の内的性相で展開した出来事を表現する為に用いられたみ言なのです。


  *****


それでは真のお父様が、創造前の神様を語られたみ言で用いた「愛の種」について解説していきます。「生命の種」は次回の記事ということになります。


宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1) 神様の二性性相の大展開

 神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本は、どのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されます。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。(207-27,1990.10.21)

  ***


たった一人で存在していた神様は、永遠無限の存在ですから知情意の機能による思考展開も、三次元世界で人間が思考するのとは次元が違います。主体と対象という概念もまだ無いのですから、授受作用もありませんし、物質世界を形成する為のエネルギーから始まる原子や分子の球形運動も概念にありません。


二代王様のみ言により明確になっている事は、神様にも意識世界と無意識世界があるということです。


  **2021年7月28日二代王様のみ言より**


 その言(ことば:ロゴス)を通して私たちは神様、お父様を見るようになります。神様のひとり御子、息子を見たとき、私達は神様が送られた、その御言から起こった、出てこられた、神様から出てこられた神様を見るようになります。会うようになります。


 その(ことば:ロゴス)を理解すればするほど神様も理解するようになります。そのひとり御子(独生者)の息子を理解すればするほど、送られたお父様、天のお父様を理解するようになります。とても不思議な比喩です。不思議な御言です。ヨハネによる福音書1章の御言は。


 ですから、わかりやすく言えば、神様の心、神様の無意識世界、見えない心情世界を表現する実体として出てこられた主と再臨主、イエス様と再臨のイエス、真のお父様に会うことによって、分かることによって、私たちは神様の無意識世界と世界を分かるようになります。


  **引用終了**


神様の無意識世界を表現する実体として出て来られた真のお父様です。神様のみで存在していた次元から、対象の存在に覚醒することによって、神様の対象でありながら神様そのものとなる真のお父様の聖誕構想が立てられました。


神様が一人で存在していた段階では、神様の無意識世界から溢れ出る喜びを求める情によって、知情意の心の機能が働き、意識世界を形成していました。


人間の脳は、外界の情報を目・耳・鼻・口・体で視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の情報として感じとり、電気信号に変換されて脳に入ります。その電気信号が脳内のスクリーンに映し出されるようにして、存在している外界の状態を認識するようになります。


脳内のスクリーンというのは、脳に入って来た電気信号を、再び脳内で外界から得た視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の情報通りに再現する仕組みを例えたものです。すると、外界が無くても、外界の情報の電気信号だけ脳内で作り出せれば、脳の仕組みの中でどんな外界の環境圏でも、自由に顕現させることが出来ることになります。


そのように神様は自分の思考のみで、永遠無限の次元の存在環境圏を顕現させていたと考えられるのです。


つまり、神様の性相の知情意の機能が、性相内の内的性相と内的形状の授受作用によって思考展開されていましたが、すでにここで性相に対して、形状からのエネルギーの作用が来ているということになります。


ここでの授受作用は知情意の機能と、エネルギーによって生じる作用が、完全一体となっているので機能と作用は区別する境界線も無く、同時遂行されていたということになります。知情意の機能は作用があって働き、作用が無ければ機能も無に帰しているのです。つまり、神様のみの存在で、思考だけで存在環境圏が顕現していた段階では、機能と作用は分けようもなく一体だったということになるのです。


さて、1990年10月21日のみ言に戻りましょう。


【神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本は、どのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。】


ここで語られている「神様は愛によって生まれた」というみ言は、性相と形状が分かれていない状況・・・、具体的に言えば知情意の機能とエネルギーからの作用が、完全一体となって稼働していた段階から、相対が生じた出来事を語っているということが出来ます。


その出来事を通して、相対への愛が生じたので、その心の起点を「愛の種」と表現されたということになります。「愛の種」とは「心の動機」のことです。つまり自分の喜びを求める動機が、対象の喜びを求める動機に変わったということになります。相対への覚醒であり、対象への覚醒であり、自らを主体と定める事を通して、そこに愛の概念が生じるのです。


そこで「愛の種」つまり「愛したくてたまらない心の動機」は、主体である自分を中心としたのではなく、相対を中心として吸収したというのです。もうこの瞬間で、真の愛の本質が何であるのかが、神様の心の内で決定されているのです。


神様は主体として、相対の何を中心として吸収したのでしょうか。そのことが腑に落ちるようになるみ言が、1990年1月12日の「あちら・こちら」の印象的なイメージ表現のみ言なのです。


宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である

 神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)


次回に続きます・・・。



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