真の父母様の本体論

キリストによる三大王権を中心として展開する天一国の真理真相解説

愛から神様が誕生したことが腑に落ちると天一国の真の愛の本質が見えてくる!

先回記事末部より


自己中心的な神様は、それまで存在を無にしていた対象である本形状の前段階エネルギーに、包み込まれる感覚を得たことによって、はじめて対象を意識したのです。そして、包み込まれる喜びの、湧き上がってくる根本の性質に覚醒したのです。


その性質こそ、無であった本形状の「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」なのです。その性質が自己中心的な神様の喜びを求める情的衝動を刺激し、主体と対象の関係性において、無限の存在さえも超えて包み込んでくる喜びの境地に、「真の愛」を感じ取ったのです。


そこで神様は、「愛によって生まれた。」と実感し、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」によって「真の愛」を探し出そうとし始めるのです。


  *****


さて、「愛が先か?心情が先か?」というヤマトの光さんの問いですが、果たしてどうなのでしょうか?


神様が無限大の存在で自己中心的でいた次元では、本性相の対象である本形状の前段階エネルギーは、本性相の思考展開に合わせて作用活動しながら、絶対的な「無」の存在でなければなりませんでした。無意識世界で「無」と化していた対象の存在が、意識世界に神様自身を包み込んでくる存在として認識された内的事象を、どのように捉えるかによって変わってきます。


つまり、どのように定義するかで、「愛が先か?心情が先か?」という問いへの答えは変わってくるのです。


「『神様は愛によって生まれた。』と、神様自身が真のお父様の口を通して語っておられます。しかし、神様が愛として受け止めた包み込まれる体験は、たった一人の神様の心の中で受け止めた情的体験です。厳密に考えるならば愛の事象とは言えません。その内的事象の体験から、愛を通じて喜びを得ようとする、情的な衝動としての心情が形成されたことになります。実際には、その体験から真の愛で授受作用する対象を創造しようと思い立つので、心情が形成されてからの、対象に喜びを与えようとする衝動から流れる情的な力こそ、愛と言えるものです。」


このように「愛」を定義すれば、「心情が先だ。」と結論付けられます。


しかし、それは創造後の昼の神様として見た場合の結論です。もっと簡潔に解説するのであれば、次のようにも言えるでしょう。


「私たち人間は三次元の被造世界に生きている結果的な存在であり、昼の神様に管理される立場なので、昼の神様の真理として『心情が先だ。』と受け止めるのが妥当である。」


統一思想は昼の神様を解説した「見える神様の教本」です。


しかし、統一思想の素晴らしいところは、夜の神様について明らかになっていない当時の著作でありながら、夜の神様について理解できる内容も解説されているところです。次の部分は、自己中心的な神様について言及している部分です。


**「統一思想 第一章 原相論 二、神性 (一)心情」より抜粋引用**


 - 略 -


 キリスト教神学では神を全知全能であるとしている。しかし神が全知全能であるとしても、全知なるまま、全能なるままで、自己満足して、何もしないで黙っていてもよかったはずである。だから全知性や全能性が宇宙を創造した動機とはなりえない。またキリスト教では神の本質を愛であるとしているが、その愛はアガペーすなわちイエスの十字架に現わされたところの、自己犠牲的な愛であった。それは罪ある人間を救わんがための愛であった。したがって、そのような愛は神が人間と宇宙を創造された理由とはなりえないのである。


 - 略 -


 愛は主体が対象に与える情的な力である。したがって主体においては愛そうとする衝動であり、対象においては愛されようとする衝動である。幼児が父母から愛されようとする衝動は抑えがたい。その衝動がかなえられないときは、反抗的になったり病気になったりするほどである。また親が子を愛する衝動も抑えがたい。子供が危機に直面したとき、我が身を顧みず子供を助けようとする親の例はいくらでも見られる。愛を通じてのみ真の喜びが得られるからである。
 このように喜びへの衝動と結びついている。
ところで、ここでいう愛とは、世俗的な愛、自己中心的な愛ではない。神を中心とした真の愛、利他的な愛のことである。世俗的な愛を通じて得られる喜びは、絶対的であり、永遠である。受ける前に、まず与えようとするのが真の愛である。日本の作家、有島武郎は、「愛は惜しみなく奪う」といったが、それは真の愛ではない。惜しみなく与えるのが真の愛である。真の愛は対象をまず喜ばせようとする。そうすることによって自身も喜びを得るからである。神は人間を創造し、無限の愛を注がれた。人間が喜ぶ姿を見て自身も喜ぼうとされたのである。


  **引用終了**


統一思想による心情の定義は、次のように記述されています。


「神の属性の中で一番の核心になっているのが心情である。心情は喜びを得ようとする情的な衝動であるが、真の喜びは愛することによって得られる。ゆえに喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動と一体となっている。したがって心情とは、『愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動』である。」


喜ぼうとする情的な衝動が、愛そうとする情的な衝動と一体となっているとあります。そのうえで、「ここでいう愛とは、世俗的な愛、自己中心的な愛ではない。」と断定されていますから、この解説に従えば、自己中心的であった神様の無意識世界は、心情世界とは言えないという事になります。


しかし、「見えない神様の教本」である夜の神様についての解説は、まだまだこれから深められ詳細になっていくでしょう。やがて、三代王様が解説する時こそ、真の解説として様々な用語が現れ、定義が決まっていくかもしれません。どんな定義になろうとも、本質を理解していれば問題ないのです。


さて、たった一人で存在していた自己中心的な神様が、本形状の前段階エネルギーの「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」によって、本性相の知情意が刺激され、包み込まれた感覚を実体験しました。その体験からくる実感を真の愛と定め、愛によって生まれたと覚醒したことを理解すると、真の愛の本質が見えてくるのです。何ゆえに、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の夜の神様と真のお父様の様相となったのかが、心から腑に落ちるのです。



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