真の父母様の本体論

キリストによる三大王権を中心として展開する天一国の真理真相解説

神様を360度から包み込んで来たものの正体は・・・!原理原本の冒頭に秘められた鍵!

先回記事重要部分


この形状を持たない本形状に、本形状自体の形状が備えられるようになったことを、真のお父様は「神様自体が性相と形状によって構成されるようになった。」と語られたのです。


それではなぜ神様は、無意識世界の最深奥に潜在させ、無い状態になっていた本形状の存在に心を留め、さらに本形状自体の形状を持たせることを思いついたのでしょうか。


そのきっかけは何かといえば、無限大の神様を包み込んでくる感覚なのです。真のお父様は「宇宙の根源」について、次のように語られています。


宇宙の根本 第二章人間創造と愛の理想の完成一、愛の絶対価値1.人間の男性と女性
 神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。


「宇宙の根源が解決されない限り、絶対に結果が解けない。」と語られながら、創造期間136億年の愛の結実である、アダムとエバについて書いています。


アダムとエバは核を包み込む二つのかけら同じということは、二人が結ばれる時のことを表しています。アダムの生殖器は夜の神様の生殖器ですから、その生殖器がエバの生殖器に包み込まれることを意味しています。簡単に表現すれば、神様が包み込まれるという事です。


アダムとエバの初夜において、神様の四大心情圏が完成しますから、対象としての被造世界における愛の結実です。これが創造の結果であり、この原因となった出来事にこそ、宇宙の根源があるという事になります。


そうすると、無限大の神様をさらに超越して、たった一人の神様を包み込んで来た存在があったという事になるのです。神様をさえ包み込んで来た、その存在は何なのかという事になるのです。


私の記述に、じれったいと感じる方もいるでしょう。宇宙創造期間136億年を越えて、さらなる時空の彼方の出来事を理解しようとしているのです。それも三次元に拘束された人間の体験と思考回路から、それを導きだそうとしているのです。私一人には、とてもできないことです。


だからこそ、神様の心情世界、無意識世界を教えてくれる真のお父様に学ぶのです。自分の観念や概念で理解しようとすると限界があります。自分を無くして、悔い改めをもって、お父様の聖霊に聞いてみるのです。


  *****


先回記事に続き、再度、次のみ言を引用します。


宇宙の根本 第二章人間創造と愛の理想の完成一、愛の絶対価値1.人間の男性と女性
 神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。


先回記事に、次の事を書いています。


「アダムとエバは核を包み込む二つのかけら同じということは、二人が結ばれる時のことを表しています。アダムの生殖器は夜の神様の生殖器ですから、その生殖器がエバの生殖器に包み込まれることを意味しています。簡単に表現すれば、神様が包み込まれるという事です。」


この内容を、栗の断面写真と、レオナルド・ダ・ビンチによって描かれた男女咬合図を並べ比べながら説明します。



栗の胚芽が核としての神様として比喩され、種の左右二つのかけらは、男性と女性に例えられて、真のお父様は次のみ言を語っています。


「皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。」


アダムとエバの初夜において、神様の四大心情圏が完成します。この時に、神様の愛と人間の愛がひとつになります。対象としての被造世界における真の愛の結実です。これが創造の結果であり、この原因となった出来事にこそ、宇宙の根本があるという事になります。


そうすると、無限大の神様をさらに超越して、たった一人の神様を包み込んで来た存在があったという事になるのです。たった一人と表現しましたが、この段階では全てです。他の何ものをも意識していない神様ですから、神様以外の存在はありません。ですから、神様は一人でもなく「一」なる存在でもなく「全て」です。その神様をさえ包み込んで来た、その存在は何なのかという事になるのです。


結論から言えば、無限大の神様の本性相の全て・・・、内的性相と内的形状の授受作用で展開する意識世界から無意識世界までの、神様の心そのものを包み込んで来たのは、虚無の存在でなければならなかった本形状のエネルギーです。一度、読んだだけでは意味が読み取れないと思います。


非常に難解な解説になりますが、理解できて腑に落ちると、天一国に展開する真の愛の本質が見えるようになります。そこに至る為の、アベルカイン一体の本質的勝利がつかめるようになってくるのです。


本形状の前段階エネルギーは、本性相の知情意による思考展開と情念流動と、絶対的な相対基準を結んで、陽性と陰性のエネルギーの無限の組み合わせによる授受作用を展開していました。神様自身の喜びを得るための構想が、授受作用によって、無意識世界から意識世界へと投影され具現化していました。


本性相の知情意により構築された構想が、意識世界で完全に具現化され神様の喜びとなるためには、前段階エネルギーの存在をわずかでも神様が感じ取ってしまったならば、喜びの実感が崩れてしまうのです。ですから、前段階エネルギーの存在感は絶対無でなければなりませんでした。


自らの存在が絶対無である前段階エネルギーは、授受作用によって、神様の本性相の構想を実現し続けることになりますが、永遠の作用展開において、どのような事が起きるでしょうか。


本性相に対して、本形状は存在を絶対無とするまでの完全一体となった授受作用において、授けて受ける関係を無限に繰り返していると何が起きるというのでしょうか。神様自身が構想上に描いていない喜びの感覚が、無意識世界の深奥から湧き上がり、その喜びを本性相の知情意がキャッチするのです。


神様の知情意の記憶は完全無欠であり、「授けて受ける」または「求めて与えられる」という作用の繰り返しにより喜びの境地に入っています。


本性相の主体としての思考を、必ず実現する対象としての本形状の前段階エネルギーの作用によって、その無限の絶え間ない連続から、喜びを得ようとする情的な衝動に向けて、自らが包み込まれる感覚という答えとなって返ってくるのです。


全ての授受作用は、主体である本性相の「授ける」及び「働きかける」心から始まり、対象の本形状が主体の働きに答えて受けて実らせる作用となって意識世界に現象化するからです。神様には、その前の授受作用から、喜びを成就して実感した感動の大きさが残っていますから、さらに大きな喜びを求めて実現した感動がさらに優っていきます。


すると、より大きな喜びを求める心情は、前の段階での記憶の残存痕跡の作用から、前段階エネルギーに包容される感覚を実感するのです。前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を、内的愛だと自覚するのです。内的愛により神様が自存していたエネルギーですから、自存エネルギーとも呼べるでしょう。


三次元世界を創造する前のことですから、三次元の現象の表現である包み込むという言葉では、表現できない神様の感じ取った喜びの感覚です。神様の為される全ての喜びの展開を、公認されたような感覚が込み上げるとともに、無限の存在でありながら、360度から包み込んでくる感覚が実感となるのです。


永遠普遍の無限の存在の神様を、包み込んでくるものがあるなどと、全知全能の神様でさえ考えが及ばぬことでした。神様自身と完全一体となっているがゆえに、その存在様相を完全に消し去っていた前段階エネルギーでした。そのエネルギーの絶対服従性が、神様の知情意を刺激した瞬間、神様は前段階エネルギーから与えられた包容の感覚を、内的愛だと認識し自覚したのです。


神様自らは思いもしなかったのに、その内的愛は他のどんな作用にも増して、無意識世界の中心点から湧き上がるとともに、神様自身を包み込んでくるのです。永遠普遍で無限の神様をも包み込んでくる偉大な感覚を、愛と呼んで神様が覚醒し、『愛により生まれた』と実感することになるのです。


原理法則に則って必然的に喜びが成就する永遠の状態から、前段階エネルギー(自存エネルギー)に包み込んでくる内的愛を感覚したその瞬間こそ、神様の心情に爆発的な感動を与えたものとなったのです。


360度から包み込まれるという事は、存在の全てであった永遠普遍の無限の神様に、「一」という認識が生じた瞬間でもあるのです。愛の神様の誕生であり、「一」なる神様の出現であり、ここに宇宙の起源、宇宙の根本があるのです。


真のお父様直筆の、原理原本の超越的な書き出しとなるのです。


  **原理原本「序章『一』から全存在へ」**


 太初はすなわち「一」であられる。この「一」がすなわち太初の根本である。この根本がすなわち「ハナニム(神)」であられる。この「一」なる存在こそ、無限小から無限大なる存在の根本である。この「一」なる根本が全体の根本であり、また全体の中心であり、またあらゆる作用の外力に対して平衡をとる起本時点(基本支点)である。

 そして、現代の科学時代に身をおく我々の生活課程では、数学を離れてその基本発展の軌道を定めることはできない。複雑で多端な現実社会を構成する基礎も、数の単位である「一」を中心とし、その中心を主として展開させ大数の実体を生み出すことは、我々のよく知るところである。それゆえ、ある存在の根本を立てるためには、「一」なる存在を確定し、存立させることが重大である。この存在が決定すれば、再び「一」から増数の重大な要素を加減し、組み合わせていくことができる。ここに発展があり発達がある。


  **引用終了**


本性相の内的形状の原理原則から見れば、「一」なる神様の出現であり、本性相の内的性相の知情意から見れば「愛」の神様の誕生です。


次回の記事をお待ちください。



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