真の父母様の本体論

キリストによる三大王権を中心として展開する天一国の真理真相解説

実は主体の前に立った対象そのものが愛の顕現であり真の愛の触発体なのです!

先回記事末部より


統一思想による心情の定義は、次のように記述されています。


「神の属性の中で一番の核心になっているのが心情である。心情は喜びを得ようとする情的な衝動であるが、真の喜びは愛することによって得られる。ゆえに喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動と一体となっている。したがって心情とは、『愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動』である。」


喜ぼうとする情的な衝動が、愛そうとする情的な衝動と一体となっているとあります。そのうえで、「ここでいう愛とは、世俗的な愛、自己中心的な愛ではない。」と断定されていますから、この解説に従えば、自己中心的であった神様の無意識世界は、心情世界とは言えないという事になります。


しかし、「見えない神様の教本」である夜の神様についての解説は、まだまだこれから深められ詳細になっていくでしょう。やがて、三代王様が解説する時こそ、真の解説として様々な用語が現れ、定義が決まっていくかもしれません。どんな定義になろうとも、本質を理解していれば問題ないのです。


さて、たった一人で存在していた自己中心的な神様が、本形状の前段階エネルギーの「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」によって、本性相の知情意が刺激され、包み込まれた感覚を実体験しました。その体験からくる実感を真の愛と定め、愛によって生まれたと覚醒したことを理解すると、真の愛の本質が見えてくるのです。何ゆえに、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の夜の神様と真のお父様の様相となったのかが、心から腑に落ちるのです。


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たった一人で存在し、他の何ものをも意識することのなかった自己中心的な神様は、本性相の知情意による存在の喜びを追求し、全知全能であるがゆえにすべての願望を成就していました


本性相の内的形状である原理原則・法則性・数理性に則り、内的性相の知情意による願望は、神様自身の意識世界に無限環境圏を拡げ、無限次元の存在の喜びを実感し続けていたのです。


ですからそのままでは、他の何ものをも意識する必要もありませんから、自らの対象となるものを必要としていなかったのです。その事については、「統一思想要網」にも書かれていますし、二代王様も語られています。どちらも、「キリスト教神学では」と但し書きがありますが、真のお父様が自己中心的な神様について語っていますから、真実真理として間違いないでしょう。


統一思想要網 第一章 原相論 二、神性 (一)心情
「キリスト教神学では神を全知全能であるとしている。しかし神が全知全能であるとしても、全知なるまま、全能なるままで、自己満足して、何もしないで黙っていてもよかったはずである。」


二代王様のみ言 2021年3月23日キングスリポート
「しかし、キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。」
「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
それがキリスト教で扱われている『神は愛である』という内容です。三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答(reciprocate)しているわけです。それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。」

(創造以前の三位一体における神とは本性相、父とは本形状の比喩)


真のお父様のみ言「御旨と世界」 人間に対する神の希望より
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。」


たった一人の存在で他の何ものをも意識していなかった神様にとって、本形状の前段階エネルギーは、本性相の願望をそのごとく意識世界に実現させてくれていました。しかし、本形状自体の形状は完全な無であり、絶対的に無であってこそ神様の存在の喜びを違和感なく実現するものとなっていました。


その神様が対象の存在を意識し、本形状に独自の形状を与えようと発想する切っ掛けとなった、神様の体験があったのです。


神様の自体内の働きは、主体である本性相の「授ける」及び「働きかける」心から始まり、対象の本形状が主体の働きに答えて「受けて実らせる作用」となって現象化するからです。神様には、その前の喜びを成就してくれた前段階エネルギーによって得た感動の大きさが残っていますから、さらに大きな喜びを求めて実現した感動がさらに優っていきます。すると、より大きな喜びを求める心情は、前の段階での「記憶の残存痕跡の作用」から、前段階エネルギーに包容される感覚を実感するのです。前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を「内的愛」だと自覚するのです。


自己中心的な神様は、それまで存在を無にしていた対象である本形状の前段階エネルギーに、包み込まれる感覚を得たことによって、はじめて対象を意識したのです。そして、包み込まれる喜びの湧き上がってくる根本の性質に覚醒したのです。


その性質こそ、無であった本形状の「絶対相対性・絶対服従性・絶対実現性」なのです。その性質が自己中心的な神様の喜びを求める情的衝動を刺激し、主体と対象の関係性において、無限の存在さえも超えて包み込んでくる喜びの境地を、知情意の思考によって「真の愛」として感じ取ったのです。


そこで神様は、「愛によって生まれた。」と実感し、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」によって「真の愛」を探し出そうとし始めるのです。


他の何ものをも意識していなかった神様から、対象を愛したくて矢も盾もたまらない心情世界を持つ神様に生まれ変わった体験が、ここにあるのです。その神様は、この体験により生まれ変わったと結論付けたのではなく、「愛によって生まれた」と表現したのです。


これが宇宙の根本であり、真の愛の起源なのです。このことが理解できると、私たちは真の愛の世界において、新しい天一国次元の真の愛の世界に入るのです。


統一思想要網では、主体と対象の愛について、すでに先回の記事で引用していますが、次のように解説しています。


統一思想要網 第一章 原相論 二、神性 (一)心情」より
「愛は主体が対象に与える情的な力である。したがって主体においては愛そうとする衝動であり、対象においては愛されようとする衝動である。幼児が父母から愛されようとする衝動は抑えがたい。その衝動がかなえられないときは、反抗的になったり病気になったりするほどである。また親が子を愛する衝動も抑えがたい。子供が危機に直面したとき、我が身を顧みず子供を助けようとする親の例はいくらでも見られる。愛を通じてのみ真の喜びが得られるからである。」


なぜ主体には愛そうとする衝動が湧き上がり、対象には愛されようとする衝動が湧き上がるのでしょうか。


それは主体と対象が、どちらともに宇宙という環境を通して、神様の真の愛に包み込まれているからです。人間は誕生した時から、真の愛に対する感性を備えていますが、それを育むかどうかは、人間自身の責任分担です。主体の前に対象が与えられるのも、神様の創造した被造世界に組み込まれた愛のシステムによるものです。ですから、対象の存在自体が愛そのものなのです。


人類始祖アダムとエバも、そして私たち人間の全て一人一人が、宇宙という環境を通して、360度から神様の愛に包み込まれて誕生するのです。360度・・・、天宙と考えれば無限次元において真の愛に包容されて、その真っ芯で生を受けるのです。一人一人が、真の愛の真っ芯にあるのです。


何故かと言えば、神様が愛によって生まれたという体験から、その神様と同じ体験が出来るように人間を創造したからです。


真の愛の真っ芯で生まれ、真っ芯で成長するので、統一思想での「主体と対象の愛の関係性」とは愛の次元を異にするようになるのです。主体の前に対象が現れた時点で、対象が意識せずとも、対象の存在自体が愛となって主体を刺激するのです。


その愛のシステムこそ、神様が天宙に仕組んだ霊的構造なのです。神様を包み込んだ真の愛により、神様の無意識世界が心情世界となったと解釈すると、この天宙に仕組まれた愛のシステムの様相が理解できるようになるのです。


この事を、原理講論の「愛と美」の関係性から解説すると、私たちがこれから住むようになる天一国の真の愛の様相が、はっきりと現れるようになるのです。



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