真の父母様の本体論

キリストによる三大王権を中心として展開する天一国の真理真相解説

第二巡目ズーム勉強会第14回「人類を救い出す聖殿食口が持つ最強の霊的装置を稼働させよ!」



講話動画は44分35秒です。



「夜の神様昼の神様と霊界システム」
第1章 霊界システムの様相
3.人類を救い出す聖殿食口が持つ最強の霊的装置を稼働させよ!
4.四大心情圏成就プログラムと蕩減復帰摂理展開システム!





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2024年4月に二代王様を日本に迎えるにあたって心得ておくべき事!

2015年1月18日に二代王様は、「沈黙を破って」のみ言を世界に向けて公表され、三代王権の大いなる出発を為されました。


それ以来、2023年11月16日に日本東京大会までの9年間、今年の歴史的決戦に向けて、一段階ずつ積み重ねるように、一貫した主題を持つみ言を語られてきました。


その主題こそ、「私達が勝利するのに必要十分な攻撃用の兵器」です。


どのような活動をしようとも、この攻撃用の兵器を一人一人が備えずしては、勝利に向かうことは出来ません。


  **2015年4月19日文亨進のみ言抜粋引用開始**


 ある力があなた達を霊的覚醒へ導くことがあります。しかし、もしそれを通してあなたがそれを崇拝しなければならなかったり、自分自身を崇拝しなければならなければ、それは破滅への道です。


 聖霊による力、すなわち神様の霊の力、主の霊の力だけが、今私達に必要なものです。そして、私達は神様の力によって支配されるのです。


 次に「神の武具で身を固めなさい」とあります。お父様は今、私達の霊的五官を開こうとされています。霊界と関わりを持つためには、私達は、神の武具が必要なのです。


 霊界は、ただ天使が飛び回っているところだけではありません。そこには悪の力も存在するのです。武具はギリシャ語では「Panolplia パノルプリア」です。そこには、「霊的な戦いの為に神様が信者に与えた様々なタイプの必要十分な兵器」という意味が含まれています。


 それは、勝利の為に戦うのではなく、勝利によって戦うのです。それは大きな違いです。私達は私達自身の力によって戦うのではなく、神様が与えてくださった兵器を使って戦うのです。私達の勝利の為に戦うのではなく、主の勝利によって戦うのです。


 主の血の犠牲によって勝利された場所は、サタンが進入することができない場所です。ですから、すでに戦いは終わっているのです。私達がその勝利の基台の上に立つ時、私達はすでに勝利しているのです。


 「Panolplia パノルプリア」には、「必要十分な兵器」という意味が含まれています。神様はサタンと戦うために、私達に不十分な兵器を与えることはしません。


 私達が迫害を受けている時、私達には必要十分な兵器がないと感じるかもしれません。しかし、私達が神の武具を身につけるとき、神様は私達が勝利するのに必要十分な攻撃用の兵器と、防衛用の兵器を与えてくださるのです。それは、私達の勝利の為の戦いではなく、主の勝利によってすでに勝利された戦いなのです。


  **引用終了**


この一人一人に与えられた必要十分な兵器は、今年の闘いにおいて、絶対的に必要なものになります。これを理解して二代王様を迎えるのと、理解せずに迎えるのとでは、母国日本の霊的復興に雲泥の差がでます。真のお父様を中心とした天軍が、開かれる大会に霊界から参席できるかどうかの分かれ道になります。


この霊的な攻撃用の兵器を、王王妃が理解できるようになるみ言を、9年の歳月を掛けて語ってくださっていたのです。そのみ言をまとめ、45分程度の動画にしました。ご視聴ください。




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神様と人間の心情の根底にある「真の愛に絶対服従して生きたいという動機」に覚醒する時!

先々回記事後半


なぜ主体には愛そうとする衝動が湧き上がり、対象には愛されようとする衝動が湧き上がるのでしょうか。


それは主体と対象が、どちらともに宇宙という環境を通して、神様の真の愛に包み込まれているからです。人間は誕生した時から、真の愛に対する感性を備えていますが、それを育むかどうかは、人間自身の責任分担です。主体の前に対象が与えられるのも、神様の創造した被造世界に組み込まれた愛のシステムによるものです。ですから、対象の存在自体が愛そのものなのです。


人類始祖アダムとエバも、そして私たち人間の全て一人一人が、宇宙という環境を通して、360度から神様の愛に包み込まれて誕生するのです。360度・・・、天宙と考えれば無限次元において真の愛に包容されて、その真っ芯で生を受けるのです。一人一人が、真の愛の真っ芯にあるのです。


何故かと言えば、神様が愛によって生まれたという体験から、その神様と同じ体験が出来るように人間を創造したからです。


真の愛の真っ芯で生まれ、真っ芯で成長するので、統一思想での「主体と対象の愛の関係性」とは愛の次元を異にするようになるのです。主体の前に対象が現れた時点で、対象が意識せずとも、対象の存在自体が愛となって主体を刺激するのです。


その愛のシステムこそ、神様が天宙に仕組んだ霊的構造なのです。神様を包み込んだ真の愛により、神様の無意識世界が心情世界となったと解釈すると、この天宙に仕組まれた愛のシステムの様相が理解できるようになるのです。


この事を、原理講論の「愛と美」の関係性から解説すると、私たちがこれから住むようになる天一国の真の愛の様相が、はっきりと現れるようになるのです。


  *****


原理講論は「見える神様の教本」、つまり「昼の神様の教本」です。創造原理とは、神様が愛する対象としての被造世界を創造するために構築された構想理想です。


見えない神様は、自己中心的な神様が原点にあります。たった一人の存在で、存在自体に喜びを感じていた神様ですが、何ゆえに対象を愛したいという衝動が湧き上がるようになったのでしょうか。


神様のみの存在で喜びを実感できていたのは、本性相の知情意の思考展開を、無意識世界から意識世界へと顕現させていた、本形状となる前段階エネルギーの働きがあったからです。前段階エネルギーはそれ自体の形状を持たず、本性相の思考展開のままに絶対的相対基準を造成して、絶対服従性を持って働いていました。


その授受作用の無限の繰り返しの積み重ねによって、限りなく増大していく喜びの実感から、包み込まれる感覚を体験するに至ったのです。三次元世界の表現で言い表せば、包み込まれるという感覚になりますが、その体験に直面した神様にとっては、神様の存在の全てが認められた感覚です。


神様を認める存在など、どこにも無いのですが、神様の知情意の感覚機能から、そのような情念が湧き上がってきたのです。自分自身で自分自身を公認したという事になるのですが、自分の存在を認め包み込んで来た感覚を、神様は自分をも超越して包み込んでくる「真の愛」として感覚したのです。


ですから神様は、真のお父様の口を通して、次のように語られたのです。


宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序一、神様の二性性相の大展開 1.神様は二性性相の中和体
 何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。


 神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。


真の愛は主体のみでは顕現しません。必ず対象が必要です。ですから、神様は「真の愛」を無限大の神様をさえ包み込んでくる、永遠普遍無限大のものとして顕現させようとしたのです。


神様よりも大きな存在でありながら、その「真の愛」の本体は神様にあると、真のお父様は語っています。そうでありながら、真の愛で連結すれば、人類全てが同じ体になると語られています。


宇宙の根本 第2章 人間創造と愛の理想の完成③なぜ結婚が重要なのか ロ. 夫婦の愛と絶対性
 神様は、真の愛の本体なので、真の愛と連結すればすべてが同じ体になります。父母は、神様を身代わりした生きている神様であり、夫と妻は、お互いがもう片方の神様であり、息子、娘はもう一人の小さな神様です。このように、3代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を築かなければ、天国を成すことはできないのです。家庭とは宇宙の中心です。家庭完成は、宇宙完成の基礎になるために、家庭で愛して宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合、神様は、全体宇宙の父母として愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。


なぜ、神様が「真の愛」の本体になるかと言えば、真の愛を顕現させる心情の動機が、神様の無意識世界に明確に生じたからです。自己中心的であった神様の本性相の無意識世界の状態は、「喜びを得たくてたまらない情的な衝動」に満ちていましたが、その衝動の深奥に、「絶対服従性」は明確な性質として機能していながら、存在は「絶対的無」の状態で潜んでいたのです。


言いかえれば、本性相の無意識世界に、絶対無の性質として潜んでいた「絶対相対性、絶対服従性、絶対実現性」が、本形状の機能として作用していた「絶対相対性、絶対服従性、絶対実現性」と完璧な相対基準で授受作用しているからこそ、対象は絶対無なのだと自覚できた時、対象の存在意義がはっきりと自覚されたのです。


その自覚から、対象の個性体の創造の構想が明確化し始めるのです。


主体の無意識世界にも、対象の無意識世界にも、真の愛に絶対服従して生きたいという動機があってこそ、主体の愛そうとする衝動と対象の愛されようとする衝動は、真の愛としての相対基準を結びえるのです。


そこで、神様自身の無意識世界の深奥に潜んでいた「絶対相対性、絶対服従性、絶対実現性」を、より中心的な性質として抜き出して、対象を構想理想に掲げるのです。その対象が形象的個性真理体として神様の前に現れる時、対象の備える「絶対相対性、絶対服従性、絶対実現性」によって、神様自体の本性相の深奥に潜んでいた「絶対相対性、絶対服従性、絶対実現性」が刺激されて、真の愛として顕現化し、神様自身をも対象世界をも包容包括するようなるのです。
このような神様の誕生を想定した上で、原理講論に解説された「愛と美」について考察していきます。


  **引用開始**


第一章 創造原理 第四節 創造本然の価値(三)愛と美、善と悪、義と不義
(1)愛と美

 神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。
 神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。対人関係において、目上の人の愛に対して目下の人がささげる美を忠といい、父母の愛に対して子女がささげる美を孝といい、また夫の愛に対して妻がささげる美を烈という。愛と美の目的は、神から実体として分立された両性が、愛と美を授受することによって合性一体化して、神の第三対象となることによって、四位基台を造成して創造目的を達成するところにある。
 つぎに、神の愛とは何であるかを調べてみることにしよう。神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。


  **引用終了**


原理講論の解説を引用する前に、必要な事は全て解説していますから、ここで期すことは簡単なことです。


なぜ対象が主体からの愛を、愛として受け止められるかと言えば、主体の無意識世界と対象の無意識世界に・・・、つまり、互いの心情世界に「真の愛に絶対服従して生きたいという動機」があるからです。また、主体が対象からの愛されようとする衝動に美を感じるかと言えば、これも同様なことです。


つまり、被造世界の人間の主体と対象には、その無意識世界の根底に、「真の愛に絶対服従して生きたいという心情の動機」を備えて生まれているのです。絶対性とは、互いにその心情で結ばれることであり、四大心情圏の結実として「為に生きる人」になるかどうかは、「戒め」を守るかどうかにかかっていたのです。



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