三原氏の原理原相論試論に取り組む思考展開の決定的間違いを友人の誰かが教えてあげてください!
先回記事末部より
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 2)宇宙は主体と対象でできている ①ペア・システムが宇宙存在の原則
神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。(203-103, 1990.6.17)
この「真の愛に絶対服従して生きる起源」となる心の動機に覚醒した時点で、神様は分かれた存在が一体となる方策を見つけるのです。
「為に生きる」と簡単に言いますが、対象が現れて初めて至ることのできる心の姿勢です。神様から主体と対象が分かれ、男性と女性が分かれますが、一体となる方策無くしては、分けることは出来ないのです。
ですから、「為に生きる」前に、「真の愛に絶対服従して生きる起源」への覚醒が無ければならないのです。それ無くして、「為に生きる」という心情は湧き上がりません。「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、なぜ覚醒したかと言えば、本性相の根底に「真の愛に絶対服従して生きる起源」となる情的要素が潜んでいる事に気付いたからです。さらにその前にも、気付くに至る段階があるのです。
三原氏は「真の父母様の本体論」から、それらの解説の内容を読み取ることが出来ていないということです。
真のお父様のみ言をないがしろにする姿勢は、黙って見過ごすことは出来ません。
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常にへりくだって物事を受け止める心を持たなければ、自分自身の間違いに気付くことが出来ません。
三原氏は、神様は最初から「為に生きる」思想を持っておられたという自論を守ろうとして、真のお父様がみ言に込めた意味と意義を、変容して引用してしまいました。
先々回の記事から、そのことを訴えています。真のお父様のみ言から、真のお父様が込められた真意を読み取ることが出来ずに、三原氏が精誠を込めたであろう「原理原相論試論」も、根底から間違ったものになっています。
その間違った神観原理観から、私が提唱する「真の父母様の本体論」を批判するわけですから、議論にも討論にもなりません。
ついに、真のお父様のみ言を、AIによる機械翻訳を用いて、自分の思想に合うように変容させて、二代王様の御言を翻訳しているブログに掲載したのです。彼が利用したみ言は、google翻訳のもので、deepl翻訳とは真逆の意味にとれる内容になります。
Google翻訳
「自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。」
Deepl翻訳
「自分を優先していた時期から、相手を優先する時期へと展開されるのです。」
全く違う意味になっていると言って良いほどですが、三原氏が引用したみ言の前半と後半の間に、この一行の意味を決定づける三段落に及ぶみ言があるのです。彼はその重要部分を、掲載しませんでした。
その重要なみ言が次のものです。
1973年10月20日真のお父様のみ言deepl翻訳
ですから、皆さんはこれを理解しなければなりません。愛と理想という言葉は対象を置いて言う言葉ですから、理想的な存在の起源は、自分のためにあるのではなく、相手のためにある立場から出発するのです。これを理解しなければなりません。神様が100パーセントを注ぎ込んだのに…。損をするようでは、神様はやりませんよ。戻ってくる時に90パーセントになって、10パーセントの損が出たらやらないということです。それ以上に返ってくるものがあるからこそ、やるのだということです。
100パーセントを投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれたのです。それだけでなく、その対象が私が望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的な対象として現れるのです。神様も愛には引き寄せられるのです。その対象が引き寄せれば、引き寄せられるのです。彼らが好きな場所には神様も行きます。私が自分を見て好きになるのではなく、相手を見て、その相手を見れば見るほど良いというのです。人間の創造は、神様の完全な投入です。人間はそれによる最高の傑作です。
「愛と理想という言葉は対象を置いて言う言葉です。」このように、「対象を置かなければ愛と理想は無い」と明確にされてから、一人で存在していた自己中心的な神様には、対象が存在していなかった事を明確にされています。対象の存在そのものが無い神様の心に、為に生きるという思想はまだありません。
そこから神様がどのような経過を経て、相対の存在に覚醒し、対象を創造しようと思うまでになったのかが問題なのです。三原氏のように、神様が最初から「為に生きる」思想を持って存在していたと思い込んでしまうと、神様も人間と同じように成長したという、真のお父様のみ言の意味が理解できなくなるのです。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1) 神様の二性性相の大展開
神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本は、どのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されます。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。(207-27,1990.10.21)
このみ言で次のように語っています。「愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。」これが重要なのです。1973年10月20日のみ言では、次のように表現されています。
「その対象が私が望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的な対象として現れるのです。」
「対象が私が望んでいた愛を持ってきて」というみ言と、「愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ」というみ言には、深い意義と、そして共通の意味があるのです。
そして考えなければならないのは、対象や相対と言っても、神様以外の何ものかが存在するわけではないのです。すべて神様の、思考と意識の中で展開している事なのです。つまり、神様の自体内の性相と形状の間で展開している出来事なのです。形状は性相のままにありますから、具体的には神様の本性相の心の内で展開した内容なのです。
つまり、女性を先に構想したと言っても、その女性を構想したのは神様です。その女性が尊い存在だとすればするほど、それを構想した神様の尊さと偉大さが増すのではないでしょうか。
それを女性をあまりに崇めるのは、女性崇拝となり女性神崇拝となっていくと考える事こそ、女性蔑視の感情が入っているのではないでしょうか。
三原氏は4月20日記事「『高キリスト論』から見る自己中心的神と四大心情圏」において、真のお父様のみ言の意味と意義を、まったく変容させてしまい、自分の正当化のために利用してしまいました。
この記事は丸ごと、彼の真のお父様のみ言への曲解であり、私が提唱する「真の父母様の本体論」への曲解から書かれた「間違いだらけの記事」ということです。
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