真のお父様と二代王様の御言と教育をないがしろにするならば私は本質と真意を訴え続けます!
先回記事重要部分及び末部より
1973年10月20日「人間に対する神の希望」真のお父様のみ言
100パーセントを投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれたのです。それだけでなく、その対象が私が望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的な対象として現れるのです。神様も愛には引き寄せられるのです。その対象が引き寄せれば、引き寄せられるのです。彼らが好きな場所には神様も行きます。私が自分を見て好きになるのではなく、相手を見て、その相手を見れば見るほど良いというのです。人間の創造は、神様の完全な投入です。人間はそれによる最高の傑作です。
たった一人でおられた自己中心的な神様には、対象は存在していなかったのです。対象が生じることにより、神様は愛に引き寄せられるようになるのです。対象が存在していない神様にとっては、「為に生きる」という概念は無かったのです。
「その対象が私が望んでいた愛を持ってきて」と表現されていますが、最初から対象に対する愛を望んでいた訳でない事は、当然に受け止められるでしょう。対象が愛を持ってきたのですから・・・・。自己愛からの欲望希望が、対象が生じたことによって「為に生きる愛」に成長したということです。
このみ言が現れてきたことは、まさに三原氏の大貢献によるものです。そこで三原氏が引用したみ言は、どうやらgoogle翻訳であることが分かります。三原氏引用は、この段落から三段前のみ言を繋いで、間に入る二段落を抜き取ってしまっているのです。あるいは抜き取ったみ言と、出会ってしまったということになります。
ともかくも、真のお父様が「自己中心的な神様」から「為に生きる心情の神様」に成長したことを具体的に語られたみ言が見つかったことは、とんでもない大きな恵みとなっていきます。
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先回記事に続いて、三原氏の読者を欺こうとする記述上の策略について解説していきましょう。
三原氏による4月20日ブログ記事「『高キリスト論』から見る自己中心的神と四大心情圏」では、真のお父様のみ言の重要な部分を中抜きして提示しませんでした。
み言の重要部分だけを取り上げて、読み手が分かりやすくするということもありますが、三原氏は真のお父様のみ言に、自分勝手な意味を吹き込むために三段落を中抜きしました。まあ、中抜きされたみ言を掴まされてしまったということもありますが・・・。
三原氏が、彼独自の意味を吹き込みたいと意図したみ言は次のものです。
「自分のためにいた時から相手のために展開されるのです。」
このみ言の一行に、三原氏は自分に都合の良い、次の意味合いを吹き入れたいと思い立ったのです。ご自身で次のように書いています。
三原氏のみ言に対する願望
「神は創造する前から、その自分を考え自分のためにいた時から、相手の為に展開されていたし、対象のためにある理想的な存在であったということです。」
神様は一人で自己中心的におられた時から、対象のためにあった理想的な存在であってほしいという、彼の願望を書いています。これは三原氏が構築した「原理原相論試論」の内容を、守り抜きたいという欲望から出たものです。
google翻訳では、彼が引用した日本語訳になっていますが、deepl翻訳では「自分を優先していた時期から、相手を優先する時期へと展開されるのです。」と訳されています。
なによりも、三原氏が中抜きしたみ言には、次の内容が語られています。
【100パーセントを投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれたのです。それだけでなく、その対象が私が望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的な対象として現れるのです。神様も愛には引き寄せられるのです。その対象が引き寄せれば、引き寄せられるのです。彼らが好きな場所には神様も行きます。私が自分を見て好きになるのではなく、相手を見て、その相手を見れば見るほど良いというのです。人間の創造は、神様の完全な投入です。人間はそれによる最高の傑作です。】
たった一人で存在していた神様には、対象となる存在が無かったと語っています。存在自体が無く、神様のみであったのに、どうしてその神様が相手のために展開することが出来るでしょうか。
真のお父様のみ言の意味付けとなる部分を隠してしまい、その後のみ言に自分勝手な意味づけをしようとしています。
このような稚拙な策略で、読者を騙そうとする心根が、記事全体に見えてきます。
三原氏は「文鮮明師の御言にみる自己中心的神」と題した項目で、菅井の間違いを訴えていますが、次の「神の最原初の構想理想の動機、『女性』と『為に生きる』の逆転」の項目でもまた、菅井を批判しようとして自ら地雷を踏んでしまっています。
-三代王権天一聖殿ブログ4月20日記事より画像転載-

彼は私が「真の父母様の本体論」で解説している内容について、次のように結論付けています。
「為に生きる真の愛そのものである神様の、その創造前からの『ために生きる』が、創造後になってしまいます。」
「真の父母様の本体論」の解説では、女性の構想の前に、神様の対象の存在への覚醒があります。対象の存在に覚醒すると、自分の無意識世界の根底に、「愛に絶対服従して生きる起源」となる動機が潜んでいたことに気付くのです。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開 ①神様は二性性相の中和体
何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。
絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。(195-20, 1989.11.1)
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 2)宇宙は主体と対象でできている ①ペア・システムが宇宙存在の原則
神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。(203-103, 1990.6.17)
この「真の愛に絶対服従して生きる起源」となる心の動機に覚醒した時点で、神様は分かれた存在が一体となる方策を見つけるのです。
「為に生きる」と簡単に言いますが、対象を想定することが出来て、初めて至ることのできる心の姿勢です。神様から主体と対象が分かれ、男性と女性が分かれますが、一体となる方策無くしては、分けることは出来ないのです。
ですから、「為に生きる」前に、「真の愛に絶対服従して生きる起源」への覚醒が無ければならないのです。それ無くして、「為に生きる」という心情は湧き上がりません。「真の父母様の本体論」は、そのことについて解説しています。つまり、「女性の構想」の前に、「為に生きる心情」への覚醒があり、なぜ覚醒したかと言えば、本性相の根底に「真の愛に絶対服従して生きる起源」となる情的要素が潜んでいる事に気付いたからです。さらにその前にも、気付くに至る段階があるのです。
三原氏は「真の父母様の本体論」から、それらの解説の内容を読み取ることが出来ていないということです。
真のお父様のみ言をないがしろにする姿勢は、黙って見過ごすことは出来ません。
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