二代王様と共におられる「天」を主体とすることによって天一国市民として育まれます!
先々回記事末部より
誰しもが神様と直接に通じる時代が、すでに到来しているのです。それは聖霊の働きによって可能になるのです。
霊媒者を通して真のお父様が現れるなど、あまりにも馬鹿馬鹿しい話です。私と真のお父様の関係性は、聖霊の働きにより直接的に通じるのです。お父様の声が聞こえるわけではありません。聖霊は、私の心の機能であり知情意に働きかけてくるのです。ですから、自分が考え思ったように、意志と思考が展開するのです。
一人一人の良心が、聖霊によって導かれるようになって、初めて天一国市民と言えるようになり、天一国主人となっていくのです。
二代王様は、聖霊を迎えた天一国市民となるための指導教育を、2015年から台湾摂理が始まる前まで、ずっと続けてくださっていたのです。真のメタノイヤに至れたならば、必ず心に聖霊を感じ取れるようになっています。すでに聖霊は、私たちとともにあってくれているのです。
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二代王様が語られたように、神様と直接に通じる時代が来ています。
それは先々回記事で、次のように解説した通りです。
「私と真のお父様の関係性は、聖霊の働きにより直接的に通じるのです。お父様の声が聞こえるわけではありません。聖霊は、私の心の機能であり知情意に働きかけてくるのです。ですから、自分が考え思ったように、意志と思考が展開するのです。」
夜の神様と真のお父様と聖霊は、三位一体で別々の様相を持ちながら、完全に一体となっています。神様の意志や心情は、テレビやラジオの放送電波のように天宙全体に流れています。この表現は神様の手足となって、神様の意志や心情を伝える聖霊の働きを譬えたものですから、電波とはまったく次元が違います。聖霊は普遍的に天宙に満ちて流れており、相対基準が結ばれれば、神様の意志や心情がその人の心の機能を通して現れるということです。
そのことについて、真のお父様は天聖経に残されています。
**地上生活と霊界 第3章 霊界 1)肉身をもって体恤可能な霊界**
我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。主体は確定していますが、自分は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだという事を確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考える時、主体から調べることはできせん。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。
自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。
今日、堕落した我々人間たちを見る時、その心自体が1000人なら1000人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描く事が出来る平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないと言うのです。
そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することが出来る基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。
我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかと言うのです。こちらに行けば、必ず反対に成るために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心として全ての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、その様なゼロ点基準がなければならないのです。
では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」とかという言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することが出来る自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応する事ができる、そのような何かがあります。(76-125, 1975.2.2)
それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。
そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかと言うと、神様との感応の度が近いのです。よくできるというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。
皆さんがこのような場に入る為には、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意図を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっているために、それをより分けて行くという事は、限りなく難しいのです。
このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ! 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。
それゆえ、信仰生活で一番重要なこととは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、最も重要な問題です。それゆえ、皆さんが信仰生活で何時も注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかという事です。それは、皆さんが何時も準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。(76-127, 1975.2.2)
**引用終了**
「神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。」
神様の心と人間の心がぴったりと合う為には、「天を主体として立てる」ことが重要なのです。つまり、二代王様が語られる「偶像の崇拝を抜いてキリストを心に立てる」ということです。
つまり、二代王様を主体とする時に、二代王様と共にある「天」を主体とするということです。「天」とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストのことです。真の愛の発動体ですから、天を主体とするということは、キリストを主体とすることです。それは神様を主体とすることであり、神様が絶対服従している真の愛に、私も絶対服従するということです。
すると聖霊が私の生心に臨在して、神様の思考が私の心の機能を用いて展開するようになるのです。
ですから、二代王様と共にある天を主体とする時に、二代王様の語られる指導教育のみ言の意味と意義が明確に分かるようになるのです。
この「天一国心情圏ブログ」は、聖霊が臨んでいる一人一人の方々によって支えられていることを実感しています。心より感謝いたします。
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