天一国心情圏を開くための究極の「真の愛の起源」「絶対服従で生きる起源」!
先回記事末部より
キリスト教には「無」に対する捉え方がありません。なぜなら神様が、「無」を真の愛で満たしたからです。第5回セミナーは、神様が遍在する神様以上に無限に広がる「無」を、どのようにして真の愛で満たすようになったかの切っ掛けについて解説しています。
そこに真の愛の起源があり、絶対服従性の起源があるのです。
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真のお父様は「無」から、直接的には「有」は起こせないと語っています。「有」を起こす存在が必要なのです。だからこそ神様にとって、「無」は絶対的に存在するものなのです。
**1976年11月27日真のお父様み言抜粋引用**
「科学の調和と絶対価値の探求」より
人間と宇宙万象の存在の始原
絶対的な価値を究明しようとすれば、人間と宇宙万象の存在の始原を明らかにしなければなりません。宇宙の始まりが「有」からか、「無」からかということが問題になりますが、皆様も御存じのように、自然科学も、社会科学も、哲学や宗教も、無の世界から真理を探求するのではなく、有の世界からある原因的存在を探し出し、そこから始まって生成された人間を含む森羅万象の存在と運行の原理を見つけだそうというものです。結局、存在の内容を明らかにし、存在物の間を関係づけることによって、すべての存在の理由と価値を探し立てようということなのです。
物質形成に必要な最小単位を元素とすれば、それは有として規定されています。その元素形成の基本が無であるはずはなく、絶対に有から始まったという論理が成立するのです。現代科学は、物質の最小単位である原子までも、その根本となるある力によって存在すると見ていますが、その力もやはり有から生じたという結論に達するのです。
極小から拡大した大宇宙であり、原因から出発した結果だという観点から考えるとき、私たち人間も原因的な存在ではなく、あくまでも結果的な存在なので、その原因的な存在が必ずあるということが分かります。
無から有が発生したという一部の学者たちの非論理性を是正し、起源となる絶対有から小有、大有に生成、発展したという論理体系を立てるということは、すなわち、この上なく科学的な存在がまず存在し、それが万有の原因となり、その結果である小有から大有までを連結して有機的に作用するようになるということなのです。
このような点から見て、従来の進化論は再検討されなければなりません。進化しようとすれば、作用しなければならず、作用しようとすれば、力によってのみ可能なのですが、それならば、作用しながら、より大きい力を生み出すことができるのでしょうか。作用では力を消耗するだけであって、より大きい存在をつくり出す力が生じるということは絶対的に不可能なことです。力は作用すれば消耗するのが原則なのですが、それが退化するのではなく、逆に進化することが可能なのか、そしてより価値ある、高次元的なものへと発展する方向性をもてるのか、ということが問題です。
相応作用と相克作用による宇宙の発展
一見進化のように見えますが、宇宙万物の段階的生成過程において、ド・フリースの言う突然変異という説明は決して成立しません。より価値のある発展的なものになろうとすれば、そこに第三の力が加えられずしては不可能なことです。今日、すべての動物が進化せず、人間で進化が停止したとすれば、結果的な存在である人間を生み出した第一原因的な存在の究極的目的が、明らかに人間だったということは否定できません。ここで私たちは、まず「第一原因的存在が先にあった」という論理を確立できるのです。
次は、この宇宙の中で、存在が先か、力が先かが問題になります。いかなる存在も、何らかの力なしでは、生存し、作用することができません。各存在の個体内で作用する力と存在と存在の間の作用を可能にする力があります。それでは、このような力はいかにして生じるかということが問題です。力が生じるためには、それに先立って、何らかの主体と対象がなければ絶対に生じることができません。
すなわち、主体と対象の関係が先有条件となって、力が生じるのです。例えば原子にも、主体である陽子と対象である電子があって、初めて作用するのです。力の作用は、主体と対象が一つになるための目的から始まるものなので、力が先か、主体と対象が先かと問う場合は、間違いなく主体と対象が先であって、力の作用は、主体と対象が一つになるための過程的現象なのです。
そして、この主体と対象との関係の差と軽重によって、力の作用がそれぞれ異なるので、様々な力が作用するたびに、その方向性と目的性が変わるようになっており、それによって多種多様な存在世界が形成されるのです。このように、いかなる主体と対象の間の力の作用にも、方向性と目的性を帯びて作用するようになっているのは、第一原因的存在の中で基本的な主体と対象が先に存在し、方向性と目的性を帯びて作用しているからなのです。
個体内で主体と対象が完全に一つとなった存在は、他の存在と関係を結ぶために、主体的立場、あるいは対象的立場を取り、それと一つになることによって、より大きな方向性と目的性を帯びた存在へと発展するのです。主体的存在と対象的存在が作用するところでは、常にある共同利益のためにやりとりしながらより大きな存在に発展するのです。
**引用終了**
神様が主体と対象、プラスマイナスの作用から「有」を顕現するにしても、厳然として「無」と向き合ったのです。神様の前にも後ろにも・・・、三次元の感覚で表現すれば360度に、神様の遍在性を遥かに超える無限の「絶対無」「絶大無」が広がっていたのです。
そこに神様が、主体と対象となるプラスの起点とマイナスの起点を出現させ、作用を起こし、エネルギーを発動させて絶対的な有を出現させていました。
たった一人で存在していた神様においては、知情意の意識展開だけで存在環境圏を創り出すことができました。思考展開や情緒がそのまま喜びとなって存在環境圏が作り出されていました。でも、一人で存在環境圏を作り出しても、有となって意識上に現われたその圏内でしか、自分の存在を確認し実感することが出来ないのです。どんなに自分の喜びを展開しても、それ以上に広がっている「絶大無」の存在は、自分の存在圏を広げれば広げるほどに、それ以上に確実なものとして広がっているのです。
そんな無限に広がる「絶大無」を、神様は自分の主管のもとに入れることが出来ないのです。そこで神様は、自分の存在圏を遥かに超えて広がる「絶大無」まで、自分の主管の中に取り込みたいと願ったのです。
真の父母 第1章 「真の父母」とは5)「真の父母」とは何か③「真の父母」は人格の実体
「世界を占領しなければならないな」と言いますが、占領するには、自分の力をもってしてはできません。愛でなければ駄目なのです。その愛の力があるために、男性にも女性にも世界征服のための理想と夢があるのです。皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう? 天があれば、見えない世界があれば、その見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう? なぜそうですか? 縦的な欲望、横的な欲望があるためです。(1988.5.22)
神様は「絶大無」までも自分の喜びの主管のもとに置きたいと、その方策を考察するのですが、他の何ものをも意識していない神様の全知全能の知力をもってしても、その手段が発想出来ないのです。
天聖経の「真の父母」から引用したみ言に、「愛でなければ駄目なのです。」とあります。「絶大無」を自分の主管のもとに置きたいと願ったのは、神様が「愛によって生まれる」その前の段階です。相対という発想が、神様の心に意識されるものとならなければ、「絶大無」を主管のもとに置くことは出来ないのです。
そこで他の何ものをも意識していない神様としての全知全能のままでは、「絶大無」を主管のもとに置くための知恵は浮かんでこないのです。そこで神様の知の機能も意の機能も、どんなに投入しても構想は浮かばずに、ゼロの位置に立って、完全な無の境地までになっていくのです。これまでの存在の喜びまでも、無に帰してしまう境地です。
知の機能・意の機能がまったくゼロになり、「絶大無」までも喜びで満たしたいという情的衝動だけが、無限の彼方まで放たれていくのです。しかし、その情的衝動に答える知識も知恵も何も浮かばずに、「喜びを得たい」という自分自身の欲望だけが無限な無の中に消えていくのです。
しかしこの段階まで至ることによって、自分から放たれていく情的衝動が、内的性相と内的形状の自己中心的な欲望を、完全具現化していた本形状のエネルギーだったと明確に悟るのです。
いままで本性相の意識をそのまま完全に具現しながら、本形状の存在をまったく消し去っていてくれたおかげで、神様自身の喜びが実現したことを再確認されたのです。そこで神様は相対の尊さに覚醒します。
それまでは存在を絶対的な無としていた本形状のエネルギーでしたが、相対として意識すると初めてそこに対象への情が流れるようになるのです。すると、本形状の対象としての完全具現性の機能が、主体に対する絶対服従性なのだと受け止められたのです。
その無限の彼方に放たれていく情的衝動に、絶対服従性を見出し、神様自身の心にも絶対服従したいという心情が込み上げてくると、無限の彼方に放たれていた情的衝動が、一気に神様の方に帰って来て包み込んで来たのです。このことを真のお父様は、「あちらの高気圧が自分(こちら)を包囲してくる」と比喩して語られたのです。
ここにこそ、神様の真の愛に対する絶対服従して生きるようになった起源があるのです。
そしてここから、神様は「絶大無」を主管のもとに置く方策を得るようになるのです。その方策こそが、神人愛一体理想による真の父母の構想となって現れるのです。
つまり真の父と真の母は、真の愛において極と極に立つ主体と対象であり、この真の父母が真の愛で一体となる事によって、「絶大無」に顕現する主体としての極と、対象として極が、真の愛で一体となる事によって「絶大無」の無限な全体が、真の愛で満たされ包み込まれるのです。
この神様の真の愛への覚醒を、真のお父様は次のみ言に表現されていたのです。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 3)宇宙の根本は愛である ①宇宙の中心は愛である
神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。(196-322, 1990.1.12)
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